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忘れられる団地と、忘れられたくない僕

この前、散歩をしていたら、町田木曽住宅の前を通った。

ここは、僕が物心つき幼稚園に通い始める25年ほど前まで、両親と住んでいた団地だった。

高度経済成長期に郊外に次々出来た団地の1つで、町田駅・古淵駅から少し離れたこの区画は、Googleマップでもいくつもの棟が敷き詰められているのが見て取れるように、凄まじい団地地帯になっている。

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両親はそれまで近くの淵野辺のアパートに住んでいたらしいのだが、僕を身ごもったことでもう少し広く、かつ隣の山崎団地に住んでいた母の両親の手も借りられるからと、木曽団地に移り住んだらしい。

僕が3才になった頃にはもうお隣の川向こう、現在も住んでいる神奈川県相模原市に引っ越してしまったので、都合数年の町田での団地生活だった。

幼稚園から住み始めた相模原での暮らしは快適で、家は綺麗になったし、ご飯を食べるところも増えたし、電車の駅も近くなった。
高校生になったら1人で東京ドームまで行くことが出来たのも、駅から歩ける距離の相模原の家に移り住んだからだろう。

ほとんど記憶は無いが、もう一度木曽団地に戻りたいかと問われると、絶対に嫌だと即答してしまうと思う。
けれど、小さくて何も考えてなかった当時の僕は、おそらく団地暮らしに割と快適さを感じていたんだと思う。

もちろんほとんど覚えてはいないが、
居間の小さいテレビで巨人戦を見たこと、
福島の父の実家の帰りの車で寝てしまい、少し離れた高台の駐車場から団地まで父にうとうとしながら担がれていたこと、
キッチンから母がこまめに自分の様子を気にしてくれていたこと、
わずかながら覚えていることもある。


2才のとき、団地の近くのスーパーに祖母と買い物に行ったら、僕がスーパーの中で行方不明になってしまった話は両親からうんざりするほど聞かされた。

僕はやはり本能的に動きたがらない性格だったようで、顔面蒼白になった祖母が家にいた母に助けを求めて再度スーパーへ行き大捜索した末、大好きだった屋上の100円で動く動物の乗り物に、コインを入れずにずっと静かにまたがっていたらしい。
そのため、周囲の人もあれがまさか迷子だとは思わず、発見が遅れてしまったらしい。


そんな、思い出がないようで微妙にある町田の団地暮らし。
けれど、どうやら最近は当時隆盛を極めた団地も住民が瞬く間に減り、空き家が増えてゴーストタウン化したり、治安が低下したりしていると聞く。

僕も、15年前に山崎団地に住む祖母が亡くなり、葬儀と宅内の片付けが終わってからは、もうめっきりあの辺りを訪れなくなってしまったが、その当時ですら祖父母のような高齢者しか住んでいないような印象だった。
祖母が自宅で開いていた編み物教室に通っていた人も、もうその多くが亡くなっていることだろう。

あの頃の思い出や、皆で笑っていた記憶まで団地の活気と無くなっていってしまうようで、なかなかに悲しい。

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今では我が家では「幼児虐待」と称しているこの写真も、きっと当時は皆笑いながら撮っていたのだろうと思う。

写真の左上の温湿度計は、今の台所の隅に、
隣にいる野原しんのすけは、ちょっと服が汚れて顔もくすんでしまったが、今も僕のベッドの隣にいる。長い期間放っておくと顔が大きく広がってしまうので、両手で顎と頭を掴んでぎゅっぎゅっと揉み込む作業も必要になった。

時間の流れの中で、物も人もどんどん変わっていく。消えていくこともある。
偶然通りがかった町田木曽団地は昔よりずっと閑散としていて、あの活気があった頃の記憶まで消えてしまいそうで、切なかった。

たとえ物質的にはそうなってしまっても、僕は僕が切なく感じられないように、忘れられないように、心に届き続けられるように生きようと、思った。

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