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ハッシュタグをつけるということ。

カメラロールを眺めていたら、ナイター前のほっともっとフィールド神戸で撮った西の空の写真が出てきました。

僕の頭はこの、雲を突き抜けて球場を淡く照らす陽射しを端的に表す言葉や表現を持ち合わせていません。

もっと端的に、もっと情感に溢れて表現できるようになったらどれだけいいことでしょう。。。




突然ですが、僕は「ハッシュタグ」をつけるのが物凄く苦手です。


思えば2010年に始めたTwitterは、「ハッシュタグ」とか「クラスター(最近は違う意味で使われてますね.......)」とか「拡散」とか、高校1年生の僕にナウでヤングで眩いばかりの新たな世界を見せてくれました。

当時、好きなラジオ番組がツイッターを始めたと知って(そう、あの深夜帯のオタク番組です。)、そこから益々Twitterやネットにのめり込むようになっていきました。


同じハッシュタグ(当時は英数字のみでしたね笑)を使って、オタク皆で「実況」をして、パーソナリティが生放送中にそれに反応して.......。
そんな「俺達は1つ!」とでも言いたげなあの一体感とか団結感が好きでした。

自分の欲望丸出しのツイートが竹達彩奈さんに読まれた時など、ラジオを聴きながら嬉しさの余り吐きそうになりました。

ハッシュタグをつければ、
色々な人やものと繋がれて、
予想外の出会いや知見がもたらされ、
自分が何かの構成員の1人になったかのような気分を味わえます。


それは、何者でもないティーンの僕にとってとても甘美で、お手軽に何かになりきることができるちょっとした変身道具のようでした。


番組のタグをつければ、その番組の視聴者に。
球団名タグをつければ、その球団ファンに。
「野球」とつければ、野球ファンに。


自分もつければそう見えるし、相手もつけてたらそう見えちゃうんですよね。


高校生の頃、当時仲の良かったある友人とTwitterのアカウントを教え合い、相互フォローになりました。

僕の中の彼は、同じ学校に通っていて、成績が中の中くらいで、国語があまりできなくて、僕より理系科目が得意で、卓球部に入っていて、ノートの字が左に傾いてミミズっぽくて、○○(苗字)で皆から呼ばれてる。
そんな人でした。

ただ、Twitterでフォローした彼は、案の定僕の知ってる彼とは違いました。

その界隈のハッシュタグをつけて、自分が描いた絵を上げたり、
ポケモンのハッシュタグをつけて攻略法を調べたり共有したり、
学校の愚痴を固有名詞を回避して言ったり、
そういう限りなく自分とは交わることのない世界にカテゴライズされていたアカウントでした。

勿論、それで彼のことを嫌いになったりした訳ではありません。
ただ、彼がつけたハッシュタグが明確に彼我の線を引いているような気がして、何かその文字列から圧を読み取っていたのは事実です。

それはおそらく逆も然りなんでしょう。
巨人が勝利した時の顔文字「o(`・ω・´)o」や、横浜が勝利した時の「\横浜優勝/」は、Twitter発祥の独自文化ですし、ある種のハッシュタグのようなものですよね。

それらを日常的に使用していた僕のアカウントを見て、彼は彼で僕に対して距離を感じたのかなあとか思い出して、寂しくなってしまいます。


この辺りから、ハッシュタグをつけるという振る舞いに対して、よく分からない忌避感みたいなものを覚えるようになりました。

それが明確化したのが、2014年の4月、
大教室で受けた大学の文学の講義の最中でした。

内容自体も面白い講義だったんですが、その講師がふと喋った内容が、自分にとってはあまりに衝撃的でした。

今の君たち学生のTwitterのアカウントのプロフィールを見てみると、みんなスラッシュ(/)で好きなことや所属しているものを区切っている。
君たちの人生はスラッシュで区切れるものなのだろうか、と私は思ってしまう。
私はスラッシュではなくて、助詞や形容詞をもって、私を構成している要素を私のことばで繋いで自己紹介したい。

細部はうろ覚えですが、ざっくりこんな感じでした。

なんか、ガツーンと後頭部を殴られた思いって本当にするんだなって思っちゃって.......
ここから今に至るまで、僕はこの概念に縛られて生きています。


僕がどういうものが好きで、どういうアニメが好きで、野球の何が好きで誰のどういうところが好きなのか、全部、
ハッシュタグとかスラッシュとかで知って欲しくないなって思ってしまったんですよね。

自己紹介もしないやつと仲良くしてくれる人なんて現実世界でもあまりいなくて、ある程度の立場を表明するためにそういう表現をしなければいけないこともあります。

けど、やっぱりそういう自己表現はあんまりしたくなくて、なるべく自分の頭で考えた文章にするように日々心掛けています。


多分、いくらかの自分は特別でありたいという意識があることは否めません。

けれども、自分が生きている世界には様々なグラデーションがあって、ありとあらゆる問題の答えは往々にして玉虫色で.......。
そんな世界に生きている自分が、白黒はっきりつける必要はないのかなって思っています。

自分がその時々によって、
なれる色、
なってしまう色、
他人から見える色、
本当になりたい色。

それさえ分かっていれば、僕は十分というか、そっちの方がむしろ生きやすいです。


だから、特定の原色をつけてくれるハッシュタグは、僕には合わないなと思ってしまうんです。
(もちろんnoteだって、ハッシュタグをつけた方が読んでもらえる機会は多くなるんでしょうが、これは僕の独り言レベルなので特につけようとは思ってないです。)


幸いなことに、そう表現していても僕のことを理解してくれる人がいてくれるので、僕は多分これからもあまりハッシュタグを使うことはないです。



神戸の夕空の写真を見て、ふとそんな事を思いました。

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