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人との関わり、世界の感覚

誰の力も借りる事なく、思考を立ち上げてみる。

そんな事、本当に可能だろうか?

私は生来、比較をする事が得意である。
あるものとあるものを比較する事で、そのものの特性や価値が露わになる。
そして、自分自身の必要とする特性や価値そのものに出会う事が出来る。

比較には、優劣がつきものである。
故に、自分自身の劣っていたり、優れていたりする側面を把握するために
自分自身と他者を比較するという事もあると思う。

特性や価値には、多くの人の好むものとそうじゃないもの
とが含まれていたりする。

多くの人が好むものが、良いものとは限らない。
ただ、そうじゃないものが本物だとも言えない。

様々な物事を自分自身で試していく事で、
自分自身の好む特性や価値が露わになるという事もあると思う。

大人になると、普通になり、一般的な社会の中で暮らす事を強いられる。
ただ、そうであったとしても、私には、子供の頃と大人になった後では
はっきりとした違いがあるように感じる。

子供の頃というのは、何か手探りで
自分自身の輪郭を探っているような感覚があった。

それが、大人になると、否応なく「自分自身とは何者であるか?」、
その事を自分自身が自分自身に語りかけるようになってくる。

「自分自身が何者であるか?」、それは何によって規定されているのだろうか?
それは、他者との比較のみではなく、自分自身の歩んできた人生と関わりが
あるのかもしれない。

優れた価値のある作品や人物のみが、自分自身を構成している訳ではない。
多くの無名な作品や人物たちとの関わりの中で人生は進んでいく。

その関わりの中で、自分自身の考えや価値観は鍛えられ、豊かになっていく。

ふとした瞬間、私の脳裏に様々な物事や人物が浮かび、
様々な関係が、様々な出来事の結果、今の人生に結びついている事を
知らせもする。

あれこれと考えて、考え抜いて、人生という自分自身の物語に
自身の身を委ねる時、ふと、自分自身の「本質的な部分」が垣間見えたりもする。

自分自身と様々な人や物との関わりとは不思議な「縁」でもある。
私には、様々な人々や物事と、様々な物語を共有していると
感じられる瞬間がある。

様々な人や物事から、勇気や希望など、様々な思いを受け取る事もある。

この世界に生きていて、1人である人は誰もいない。
そう感じるくらい世界は、広くて暖かくて、残酷でもある。

「この世界の物語に参加している」、私には今、そんな感覚が生じている。

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