深く「読む」技術――解説 3

少し間が空きました。このノートと並行して別の原稿を書いており、それがやたら体力を食うやつなので、いったん、休止となりました。
表題も上のように変えました。

○自分の保ち方
●この点の核心を欠点として表現するなら
「感じ考える人間として生きている自部とは別のところに、それも学問や日本文化の名のもとに、頭だけで何やら得たいの知れない領域をこしらえ、その領域で考える自分を本来の自分であると錯覚する危険がある(p13l5-8)

●利点として捉えるなら、学生は「日本学を学ぶ学生になると、その変化にもうひとつ別の変化が加わります。日本語や日本文化に惹かれているうちに自分のなかに生じる変化です。変化は二重になっている(p14/l8)

○原則:一人の人間として感じ考える(p14l1)
色々と書いてはありますが、基本点を突き詰めればこれで終わりです。具体的に詳しく書くと作家論や作品論となって、書く方にも力が入ります。ご質問があれば可能な限りお答え致します。

必要な余談ーー外国語学科と外国文化学科の違い
日本の大学では、外国の言語と文化にかかわる学科の場合には、おおよそ外国語学科と外国文化学科と記されていると思います。
●英語と英文学 たとえば、英語圏の場合には、英語学科と英文学科となるでしょう。しかし英文科を選んだ人で、自分が英文学を専攻するつもりだったのか、英語を勉強できればいいと思っていたのか、それとも英語学(これは英語の勉強とは違います)を深めたいと思っていたのか、入学時にもう決めていた人は非常に少ないでしょう。
なにしろ英語と英語学の違いも高校までには教わっていないのですから。私の所属したミユンヘン大学の場合には、東アジア研究所日本学科となっているだけで、言語と文化は別になっていません。
●その他 文化には文学だけが所属するわけではありません。イギリス哲学やアメリカ哲学はどこへ行けばよいのでしょう。それは哲学科で勉強すればよいのだと言う人がいるでしょうが、では哲学は文化のなかに入らないのでしょうか。
宗教はどうなるのでしょう。文化のなかに宗教を入れるとけしからんと思う人もいますが、実際問題として、イギリス文化を研究している人は、カトリック教会、英国国教会、プロテスタンティズム、こうした違いをひとまず括るには文化という項目を立て、その下位区分として宗教をもうけ、さらにその下に今挙げた英国国教会などをおさめるような分類の仕方を取る人が出てくるでしょう。
整理の仕方は人により大学により国により違ってきますが、とにかく何らかの仕方で整理しなければならないのはどうにもなりません。
結局、こうした分類は大まかなものです。分類枠それ自体に意味を求めるのではなく、最初はその枠のなかに含まれる個別の内容を詳しく知る方が得るものが大きいでしょう。

●日本学 では日本学の場合はどうなるかと言いますと、日本語を前期2年で、日本文化(文学+哲学+宗教)を後期4年で勉強するようになっていました。

〇原則の詳しい説明
こんな雑談を頭に入れながら「ひとりの人間として考える」ことが求められていたわけですね。でも、実際のところ、どうやって? 
当時、ドイツの大学はすべて国立で55大学あったそうです。6年制大学ですから、日本の大学院修士課程を出ることに当たります。学費は無料でした。その代わり、学生は親からの金銭的援助を期待できません。自分でアルバイトなどをしながら生活費と交際費を稼がなければなりませんでした。
親からの金銭的援助なしとは言っても、実際には援助を得ている学生はいました。そうした学生を軽蔑する学生もいました。
こうした実情を背景に(ドイツ人)「学生は親の保護から離れて自分の足で歩きはじめる、迷いとやら身の多い時期にあります(p14l3-4)。
それも、「自分のなかにふたりの自分が統合されないまま同居しているような状態になります。それも無自覚に(p13l後ろから2-3)。

ではどうすれば自分を自覚的に眺め、自分を再組織する道筋が得られるのか。先ず考えるべき点は以下の三点です。
  ●専攻が何でも「机から離れたときに戻る先は生身の自分」(p14最後行)
  ●それは「ひとりの人間として感じ考える自分」
  ●「知りたい、分かりたい、という欲求が出てくるのも、この自分」
  
それなら生活体験も勉強の成果も、そのような自分に組み込まれるように蓄積すればよい。そのときに自分を意識する機会を人為的に作ればよい。

疲れました。今日はここまで。2024/08/17






















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