涙が止まらない「日本とパラオの絆」永久保存版
パラオがなぜ親日国であるのか?
本日は、その理由について紹介したいと思う。
日本人としての心を取り戻してほしいと願う。
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昭和16(1941)年、大東亜戦争がはじまりました。
パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、
また太平洋防衛圏上の重要な拠点となったのです。
そのため、日本にとっては防衛上重要な拠点であり、
敵国アメリカにとっては脅威となりました。
そのことを恐れた米軍はパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画し、
どんどん侵攻していきます。
当時、ペリリュー島には899名の島民がいました。
島民たちは白人統治時代を知り、
日本統治時代も身をもって経験しています。
そこで、島民たちは話し合い、大人も子供も一緒になって
日本軍とともに「戦おう」と決めました。
その旨を当時のペリリュー島守備隊長である、
中川州男(なかがわくにお)陸軍中将のもとへ向かいました。
<中川中将は日ごろからもの静かで、笑顔の素敵な優しい隊長さんだったそうです>
中川州男大佐がパラオ・ペリリュー島に赴任したのは、
昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた
中川中将は、にっこり笑って「永劫演習さ!」と答えられたそうです。
「永劫演習」とは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で、普段から優しい中川中将ですが、胸に秘めた決意は固いことがわかります。
そのような中川隊長なら、パラオの島民たちが自分たちの頼みである、
一緒に戦うことをきっと喜んで受け入れてくれるに違いない!と
島民たちは思っていました。
そのような思いで中川中将の元へ尋ねます。
そして、中川中将に「私達も一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
中川隊長は、真剣に訴えるひとりひとりの顔をまじまじと見つめながら、
黙って聞かれていました。
話が終わり、中川隊長からの反応はなく沈黙が続きます。
・・・。
そのとき、中川隊長は、突然、驚くような大声を上げ、
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
島民たちはみな耳を疑いました。
(今、俺たちのことを「土人」といった??)
そのあと、彼らは泣いたそうです。
断られたこと以上に、土人と呼ばれたことがショックでした。
あれだけ仲良くしてくれていた日本兵から
土人と呼ばれた悲しみが大きかった。
日ごろから、日本兵は、自分たちのことを仲間だと言ってくれていたのに、、、
同じ人間だ、同じ人だ、おれたちは対等だと言ってくれていたのに、、、
それが「土人?」
信じていたのに。
それは見せかけだったの?
みんな日本人に裏切られたという思いで、
ただただ悲しくて、悔しくて皆が涙を流していました。
それから数日後・・・
日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には当然、日本兵は一人も見送り来ていません。
島民たちは悲しみの中で船に乗り込みます。
島を去ること以上に、日本兵に裏切られたという思いがただただ悲しかったのです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと岸辺を離れ始めました。
次の瞬間―
島から突然、「おぉぉぉぉ!!」という声が聞こえてきます。
島に残っていた日本兵全員が、森の中から浜辺に向かって走り出てきたのです。
そして、一緒に歌った日本の歌を歌いながら、
ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。
船上にあった島民たちは、はっきりと分かりました。
日本の軍人さんたちは、「我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ」と。
そのために心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。
船の上に言える島民、全員の目から涙があふれました。
そして、岸部に見える日本兵に向かって、
島の人たちは、涙でかすむ目を必死に開けて、
ちぎれるほどに手を振りました。
船の上から、一人一人の日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えます。
皆が笑ってます。
歌声が聞こえます。
そこには中川隊長の姿もありました。
ほかのみんなと一緒に笑顔で、手を振ってくれていたそうです。
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる
日米の戦闘のひぶたが切って落とされました。
島にたてこもる日本軍は10,500名。
対する米軍は、総員48,740人。
火力に勝る米軍は、航空機と艦砲射撃によって、
補給を絶たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリリュー島に投下しました。
そして、9月15日、「2,3日で陥落させられる」と宣言した後、
海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。
米軍は海岸に上陸し、そこに陣地をめぐらしました。
その時―
突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、
満を持して反撃を開始したのです。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて、
一時退却をしています。
この戦闘により、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
今でもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
10月30日には米軍第一海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、
心臓病を発病し、後方に送られています。
将官が倒れるほど、それまでにすさまじい戦いだったということです。
この時点で、3日で終わるとされた戦いは、
なんと1か月半も継続していました。
しかし、食料も水もない日本軍。
夜陰に紛れて、怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って
米軍の猛火に遭います。
水場の近くには、日本兵の死体が重なってあったそうです。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ始めます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底をつき、
司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐がこの日、
司令部で割腹自決を遂げます。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして、翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、
最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして、11月27日、ペリリュー島はついに陥落したのです。
米軍の上陸開始から2か月半が経過していました。
戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、
そのままに放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体はほったらかしだったのです。
戦闘終結からしばらくたち、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片づけ、
埋葬してくれました。
戦後、パラオは米国の信任統治領となります。
けれど、米国は島民たちへの教育はおろか、
島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、
パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
独立にあたり国旗を制定することとなり、
国民から一般公募した結果、日の丸をもじった
今のデザインに決定しました。
ただし、パラオの国旗の満月は、日の丸の旗の太陽とは違って、
中心から少しずれています。
一説には、日本に失礼だからと、わざと中心を外したと言われています。
これは、パラオの人たちの慎み深い態度の表れだと思います。
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日本の英霊の方々は、ご自分の命をかけて自国を守るのみならず、
世界各国を守ってきた。これぞ、大和魂。
日本人の一人ひとりの胸に深く刻んでくれることを願っている。
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