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誰かを想い続ける、ということ

某月某日、いつものように散歩をしていて、またもや同じ墓標が目に留まった。この墓標は以下で紹介している。

ここに捧げられた花束に、「あなたとの愛おしい記憶として…決して忘れない」という一家族からのメッセージが捧げられている。6年前に33歳で亡くなった人に、おそらくはこのようなメッセージを毎年送り続けているのだろう。

memoryというと、記憶や記録と捉えられがちだが、いろんな形で生き続けることができると思う。その人から影響を受けて起きる行動や習慣。美しい筆跡、じっと事象を捉える眼差し、毎日のヨガ、毎日の散歩、語学に対する情熱、その人や旅にヒントを得た料理のレシピ、生活習慣の改善、減量…いろんな人の影響で成り立っている。

それは、パートナーとなった相手であれば、ひとしおだろう。この回想の文脈で、合唱団で一緒のおじさん、リチャードを思い出した。彼には、日本人の奥さんがいた。いた、というのは、亡くなってしまったということだ。彼の家にも訪れたことがあるが、無造作に散らかった男性的な部屋の中に、日本の物の面影の数々。あぁ、奥さんが息づいているんだなと感慨に耽ったものだ。

舞台でもそう。彼は、尺八やフルートを演奏することもあり、日本をイメージした舞台や演奏会に呼ばれることが多い。トップ画は僕が今年3月に現代版「蝶々夫人」を観に行った時の舞台セットである。怪しげな、オリエンタルな雰囲気のする日本のセット。遊郭が舞台ということもあり、エロい写真もいっぱい貼ってあった。(写真からは確認しづらいが…)こういったものに出たり、日本人が多くいる合唱団に参加したりしているが、もちろん、親日家であるとともに、何か、彼女の面影を追い求めている気さえする。

僕は少し風変わりなので、こういうmemoryを妄想しては、切ない気持ちになったりする。

これからも、ずっといろんなmemoryの中で、生き続けますように。

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