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生きるということ

某月某日、すっかり秋めいて、雨模様の毎日が続いている。もちろん、ロンドンは天気が悪いことで有名で、天気が悪いのには慣れているのだが、通常は天気が変わりやすく、雨が降ってもすぐ止んだり、晴れ間が見えたりすることが多い。その中で、かなり雨がちな日々が続いている。晴れ間が見えると、嬉しくて散歩したくなる。その中で、街路樹に建てられた墓標を見つけた。

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どうやら、33歳で亡くなった青年の、命日だったようだ。僕よりも若くして亡くなった方の墓標。

「彼は尊厳、優しさ、寛容さとともに人生を送った」

僕は既に35歳になったが、優しさはともかくとして、どうやって生きたら「尊厳や寛容さとともに人生を送った」と言われるのか分からない。もちろん、そう言われるために生きているのではないのだけれど。例えば、がん治療などにおいて、長く生きられる確率が高い方法よりも、QOLが高まる方法を選べば、尊厳のある生き方と言えるだろうか。あるいは、人種差別に遭いながらも、それに抵抗しながら生きていたら、尊厳のある生き方と言えるのだろうか。彼がどうしてそう形容されたのかは知る由はないが、尊厳のある生き方というものを考えさせられた。

また、寛容さについて。僕もある種、寛容な人間だとは思うが、死んだ際に、人に形容されるほど寛容だとは思えない。人に形容されるほどの寛容さ。迫害されても、「非暴力」を貫いたらそうだろうか。そういう意味では、ガンジーのような「非服従・非暴力」は、尊厳と寛容さとともに人生を送ったと言えそうだ。こんな生き方をして33歳で亡くなったのだろうか。

30歳の三浦春馬さん、40歳の竹内結子さんの訃報に接して、自分が今、死を迎えることについて考えたりすることが増えた。人生でやり残したことは何か。

僕は、どういう形であれ、子供を持ちたいと強く思っているので、子供が欲しい。ただ、今死ぬのであれば、自分では育てられない。おそらく、自分で育てられなかったことが、やり残したこととなる。

あとは、自分が中途半端にしていることをきちんと終え、そのとき自分が愛している人達に見守られて死んでいけば良いか。自分が愛している人全てに見守られるのは不可能だと思われるので、自分の思いを何処かに残したり、手紙を書いたりするのだろう。

時間があれば、いろんな景色を見たいと思うだろう。できれば、その景色とその感情を誰かと共有しておきたいと思うだろう。映画「最高の人生の見つけ方」の印象と被る。

「自分は長くは生きたくない」という人と話をして切なくなる時がある。僕は生きている限り、いろんな景色を見たいと思うし、いろんなことに挑戦したいと思う。

挑戦に関して言えば、自分の挑戦には限りがあるし、それに疲れてもきている。挑戦する人を支援するのも一つの挑戦だと思っている。一緒に同じ夢を見るということは素敵だし、道なき道を探して、一緒に冒険に出てみたいと思う。もちろん、これは自分のすべてのリソースを使ってというわけではないことがほとんどで、それは、相手の魅力にもよるだろう。

そういう意味では、僕は、見たい景色がある限りは大丈夫だと思う。挑戦したい人が近くにいれば、なお良いが、それはお互いの相性とタイミングの問題だろう。

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