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人はそれを「青い鳥」現象と呼ぶ

7月19日(金)

昨日の日記で書きそびれた、会津八一記念博物館の常設展について。
常設展入り口付近に、「学規」と題された八一自身の書が展示されていた。八一が早稲田で学ぶ寮生のために書いたものらしい。

ふかくこの生をあいすへし
かへりみて己をしるへし
学問を以て性を養ふへし
日々新面目あるへし

いい言葉だなあとしみじみ眺めた。学問の規範・心得というより、日記や人生のテーマだなと思った。

これを心がけて生きてるってことに関しては私、けっこう自信あるよ(三行目以外は)。

インプットしていないとアウトプットの質が下がるというのはよく聞く話だけれど、アウトプットが習慣化しているときの方が、いろいろなものを柔軟にインプットできる、とも言える気がした。日記を始めてから、何でもないことにも心が動いて、何を見ても読んでもああこれについて書きたい、と思うようになった。

さて、今朝もいつも通りばたばたと支度をしていたのだが、家を出る直前に、仕事に毎日つけていく腕時計が「定位置」に置いていないことに気づいた。ああ、昨日松の湯の脱衣所で外してそのままだったっけ。じゃあ通勤鞄に入っているから会社に着いてからつければいいや、と、とりあえず出発した。

だけど出社して鞄のポケットを探ったら、ない。

定期や飴のゴミや肝臓のサプリや丸まったティッシュやペンのキャップは入っているけれど、ない。

リップは四、五本入っているのに(無駄)、腕時計は、ない!!!

鞄を底からひっくり返しても、腕時計はどこにも見あたらなかった。

サウナ上がりでぼうっとしていたので、自分が腕時計を装着したかどうか、記憶が定かではなかった。松の湯のロッカーに置き忘れてきたかもしれない。あるいは帰りに日記を書くために入った最寄り駅のカフェ・ド・クリエに置いてきたかもしれない。私はキーボードをたたくのに集中すると、無意識に時計や指輪を外す癖がある。

もしカフェのトレイに載せてしまって返却台に置いてしまっていたら、ペーパー類と一緒にゴミ箱送りになっていてもおかしくない。そんな最悪の予想が頭をよぎる。

一日中不安な気持ちで仕事が手につかないまま過ごし、今日は帰りが遅くなるから明日松の湯とカフェ・ド・クリエに問い合わせよう、ないって言われても直接聞きに行こう、東京メトロの遺失物センターにも問い合わせフォームからメールしよう(←常連)と決意して帰宅した。

そうしたら、ふつうに、あった。自宅のテーブルの上に。うずたかく積まれた本の山の頂に。本当によかった。

転職が決まったとき、当時の堅実だった自分としては大金をはたいて、「これからは自分の好きなものを買うためにだけ働くんだ!」と決意して買った、思い入れのある時計だ。

外でなくしたと思いこんでいた探しものが自宅で発見される、これを人はメーテルリンク「青い鳥」現象と呼ぶ(今決めた)。

自分の一番身近にあるものが自分の幸せを形作っているのだということに、人はなかなか気づかない。あるはずの幸せをないと思いこんで探し求めている。

再会した時計を光にかざし、美しいブルーの針と小さな石を久々にじっと眺めた後、うやうやしく「定位置」に戻した。

#日記 #探しもの

数年前何かの話の流れで、若い男の子に「『青い鳥』って読んだことある?」と尋ねたら「twitterのことですか?」って聞き返されて衝撃を受けたことを今ふと思い出した。ってか、よく考えたらtwitterのアイコンの鳥は青くないじゃん。背景が青いだけで。

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