図書館史概説②~世界の図書館史~
はじめに
はい、ということで連載記事2本目はやっと本題の「図書館史」です。そして今回取り扱うのは「世界の図書館史」ということで、日本以外の地域における「図書館(及び一部書物)」について概説していきます。とは言え、当時参考にしていた分権の性質上、どうしてもヨーロッパに偏り、イスラム文化圏、中国・アジア文化圏については物足りないかと思われます。
今回もお楽しみ頂けると幸いです。(ちょっと長いのは勘弁して下さい)
1 最古の「図書館」たち
アッシリアの首都ニネベに出現した図書館は世界最古の図書館のひとつとして知られる。この図書館はサルゴン2世のナブ神殿に設置され、アッシュルバニパル王の頃に黄金期を迎える。このことから一般に「アッシュルバニパル王の図書館」として呼ばれることもある。重要なのはここに図書館員の存在が認められ、目録など図書(粘土板/タブレット)の管理作業に携わっていたことである。また、保管された粘土板はサイズなどの規格統一がなされ、内容のジャンルごとに整理・区分されていた。つまり、この「最古の図書館」は、組織的に書物・記録メディアを管理していたのである。そしてこの図書館は、詳しいことは判明していないが(2015年時点)、残存する記録から王室の図書館でありながら一般にも公開されていた様子が伺える。またアッシュルバニパル王は他にも神殿図書館を所有しており、ここは学校の役割も担っていたようだ。
これらの特徴は、前回記事(図書館史概説①)で述べた「情報の記録メディアを集積・保存・整理・管理し、それらの成果を利用者に提供するための専門家を有する施設、かつそれらが機能しうる」という図書館の定義、特に粘土板の図書を組織的に「集積・保存・整理・管理」し「専門家を有」していたという点は、これに近しいものであると考えられる。「本の形態」を除けば、現代における図書館と同等の機能を有していたのだといえるであろう。
その他、古代にはアッシュルバニパル王の図書館以外にも「図書館」と呼びうる施設、あるいはその原型といえる施設は存在した。例えば、シュメール人は神権政治を行うその中で、神殿内には収穫された穀物量、財産の記録された粘土板、その他交易の記録やまじないや護符の類も保管していた。また、シュメール人の都市エブラは人口25万に及ぶ巨大な都市であり、交易による莫大な利益を得ていた。その遺跡にも粘土板の保管庫跡などがみられる。ここからは、木製の支柱に支えられた棚が見つかり、どうやらそこに粘土板を並べていたというのである。交易に使われた文書以外にも、詩作のための一種の辞書や叙事詩、神話、歌謡、占星術、ことわざ、数学、植物及び動物学など多岐にわたる書物が保管されていた。また、イラク南部のシッパルという都市は太陽神信仰の拠点であり、その寺院の図書館の蔵書には読書指導や文字教育の資料が多数含まれており、そのことから隣接する学校の「学校図書館」であったのではないかと推測される。また専門の写字士が図書館の管理も行っていた。
エジプトにおいては、粘土板とともにパピルスが多く用いられた。パピルスは、湿気に弱く長期の保存に向いておらず、ピラミッド内部に厳重に保管されていたものを除きほとんど現存するものはない。またこれらは、複数枚を繋ぎ合わせることで「巻子本(スクロール)」の形で保管されていた。紀元前2000年頃には文字の読み書きの普及とともに、個人の文書収蔵庫を保有する裕福な商人や高官が現れた。また、古代エジプトには王宮図書館と神殿図書館が存在した。王宮図書館には、政治や軍事、裁判などに関する公文書や医学、数学などの学術書が保管され、神殿図書館には宗教祭事や行事の記録、神話や伝記などの宗教記録が所蔵されていた。また、こうした図書館や書物を管理する図書館員は高等教育を受け、政治的にも宗教的にも「本の番人」として、また神に仕える記録員として重要な地位にあった。
東洋、特に東アジア世界において文字と書物の発生は古代中国にその起源を遡る。古代中国で最初に書物を管理する初期の形としての図書館の出現は春秋戦国時代(BC770‐476)で、「蔵室」とよばれるものである。この頃には諸子百家とよばれる思想家たちが出現し学芸文化が栄え始め、特に有名な孔子は文献学者でもあり、図書の収集家でもあった。また、戦国時代(BC475‐221)に入り封建体制が確立されると、権力者や知識人らは蔵書を増大させていく。そして、秦を経て西漢の時代になると劉邦は学術の振興を目指し宮廷内に「蔵書処」を設置し、書物の収集や復版、整理事業を始めた。これが中国最初の図書館とみなされる。図書館には書物を整理し目録事業を進める役人らがいたが、彼らは時には政治にまつわる記録を編纂し、また皇帝らに政務に関するレファレンスに類する業務を行うこともあったようだ。
2 古代ギリシア・ローマ世界の「図書館」事情
ギリシアでは紀元前5世紀頃になると書籍商が出現し始め、図書への需要が増すにつれ事業として成立する。これ以降図書の個人所有の道が開かれ「個人図書館」の類が出現する。前4世紀頃になると、多くの学者が私設の図書館を持つようになり、プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンなどの教育機関も多数存在した。彼らは多数の書物を収集し、特にリュケイオンには公開こそされていなかったようだが図書館や博物館が付設され研究機関として組織されていた。さらには、前5世紀頃のアテネでは三大悲劇作家らなどの劇作が盛んに上演された。ギリシアにおいて演劇とは神に捧げる神聖なもので、作品の質を守るという名目で写本の製作、管理が政府の下におかれるようになる。その役割をアテネの公共図書館は担っていた。そして心身の健全な育成を目指すギリシアにはギムナシオン(体育館)があり、そこには図書館も付設されていた。同様にアゴラや劇場、競技場といった施設にも図書館が付設されており、特に若者に軍事教練を施しながら教育を施す機能を有する施設としても活用されていた。そして、紀元前100年ごろになると、市民らの間で寄附によって図書館を設立する動きが活発化していった。
そして、古代ギリシアにおいて忘れてならないのはヘレニズム文化の最盛期、学術的・文化的施設としてプトレマイオスによりプトレマイオス朝エジプトの首都、アレクサンドリアに「ムセイオン」が設立されたことである。そこには巨大な図書館も付設され、当時の「知」の全てを収集しようとする発想を持っていた。ムセイオンは図書館、博物館を併せ持ち多くの専門の職員を雇い、プトレマイオス3世(BC246‐222)の頃には2つの図書館があり、本館と「妹の図書館」の2つが設置され、前者は学者や文筆家ら知識人に、後者は一般に公開されていた。
ローマの図書館ではギリシアの図書館を踏襲するような形態・組織・収集方式を持ち、特に収集に関しては熱心であったが、執筆と言う点ではギリシアほど活発でなかった。特に前2世紀頃のローマの上流社会ではギリシア文化が華やかで、ギリシア語による著作、ギリシア文学の写本をコレクションするのがステータスであり、そうしたコレクションをもとに個人図書館も出現するようになる。こうしたローマ最初の図書館として記録に残るのは、軍人ポーラス・イーミリアスの図書館である。彼は紀元前168年マケドニアを降伏させた際、息子のために宮殿の図書館から図書を持ち帰ったという。以後ローマの征服者たちはローマの版図を拡げるにつれ、その征服地の蔵書を持ち帰ることをくり返した。中には、図書館に書庫と閲覧室、談話室を設け、友人や身内以外の学者などにも公開するものもいた。
ローマにおける公共図書館の出現は紀元前39年、軍人であり政治家のポリオが各地の図書を集積しアヴェンティンの丘に自由神殿(アトリウム・リベルタテイス)とよばれる図書館を設置し公開したことに始まる。これは、本来カエサルがアレクサンドリアの大図書館に匹敵する図書館をつくる計画を持ちながらも、暗殺されてしまい、その計画が頓挫したのを受けてのことである。これ以降アウグストゥス帝以下、代々の皇帝は図書館を設置している。ローマ公共図書館の蔵書の多くは文学が大半であり、特に公共浴場に設けられた図書館はその特徴が顕著である。古代ローマの図書館の多くはギリシア語とラテン語の図書が分けて配架されていた。また特徴として、ローマの図書館員のほとんどは、高度な教育を受けた者も含めて、戦争奴隷が担っていた。後にローマ人が担うことになるが、それ以降も図書館員の待遇はアレクサンドリアや古代シュメール・エジプトなどと比べて、非常に低いものだった。なお、ローマだけでなくイタリア各地、シチリア、北アフリカ、ガリアなどの各地方にも図書館が存在していたことが確認されている。
以上のように、古代から既に「図書館」とよびうる施設は存在していた。しかもそれらは、ただ書物を収集するだけでなく専門の職員によって組織的に管理、整理されたり、また学術研究、教育の場として活用されたり、公共施設として親しまれたりと、現代の図書館に通ずる機能を有していたのである。前述したように古代と現代における違いとは「本の形態」という点が主であろうと考えられる。つまり、現代の「図書館」の礎は古代から既に形作られ、現代まで継承されているのである。
3 キリスト教と「図書館」
4世紀に入ると、ローマでキリスト教が認められ国教化されるようになる。そうしてキリスト教が普及すると共に、教会、修道院や神学校にキリスト教にまつわる書物が集積されるようになる。これらのうち特に修道院図書館は、ヨーロッパ図書館史において中世期の図書館の特徴として取り上げられる。しかし、原田安啓は『図書・図書館史』において「修道院内の蔵書・写本室は図書館と呼ぶにふさわしいかどうか検討してみる必要がある」と述べている。その理由として、まず蔵書数が数10冊から200冊程度であったこと、その内容がほぼキリスト教神学に限定されていたこと、そして利用者が聖職者に限られていたことなどを挙げている。また、ある修道院では修道院での読書生活を「修道士たちは四句節から十月までは第四時から第六時まで、……読書にあてる。四句節のはじめに、修道士は図書館からその年読むべき本を受けとり、それを四句節の終わりまでに読了しなければならない」と規定していた。以上のことから原田は、「中世西洋には図書館がなかった」としている。
確かに、古代の「図書館」の形態からはかけ離れており、そうした点を鑑みると古代のものと修道院のそれが同等、同質のものであるとはいいがたいのであろう。しかし、図書館の分類のひとつには「専門図書館」というものがある。蔵書の内容が「キリスト教神学に限定されて」いたことは「特定の主題に特化」しているということであり、利用者も限定されていたことからも、修道院内の蔵書室を「専門図書館」と定義することは可能であり、ひいては「図書館」とみなすことができるであろう。さらには、これが現代における「専門図書館」の原型のひとつであるとすることも可能なのではないだろうか。この点について、私見であるが原田安啓氏の当時の説に対しては批判・検討対象としている。
6世紀には東ゴート族のイタリア政府高官であるカッシオドルスという人物が、ヴィヴァリウム修道院を創設した。彼は宗教的知識のみならず、学問や文学などあらゆる面での知的関心事を追及する修道生活を理想とし、多くの蔵書を北アフリカから購入した。そして、当時は価値の低い作業とされていた写字活動を重視し、写本の転写とその収集管理を修道院生活の基本とするモデルを作った。また、キリスト教の案内文献である『聖俗学問指南』や、聖書、聖書注釈、歴史書、教父らの著書、自由学芸、倫理学など約300冊を超える文献についての解説書を著した。
こうした動きからも、修道院図書館や写本室が後世に果たした役割は決して小さくないことが窺える。以上、この時期をみてみると学問所としての図書館の、また大規模な蔵書を持つ図書館の発達や出現はほぼなかったが、ある種現代に通じる「専門図書館」という「図書館」のあり方が示されたといえるであろう。
4 中世ヨーロッパの「大学図書館」
ヨーロッパでは11~12世紀頃にかけて中世封建社会が成立する。三圃式農業による生産力向上を背景とした人口増加、それに伴う農村共同体、封建領主制の形成。そして農作物の定期市は都市へと発展していく。
そうした中、特に12世紀以降イスラム圏との十字軍やレコンキスタ、交易などによる接触を経て、ヨーロッパにイスラム圏の文物が流入する。その中にはアラビア語で記されていたものをラテン語に翻訳した古代ギリシアの書物やイスラムの諸学問の成果が含まれており、中世ヨーロッパに知的好奇心を芽生えさせる結果となった。こうして知的探求の場として「大学」、「学院」組織が形成されていく。
大学という学問、知的探求の場において「書物」はそれを支えるうえで不可欠なものであることは自明であろう。しかし当初の大学には図書館とよべるような施設はみられず、あってもせいぜい小規模な私文庫であった。教授、学生らは講義のためのテキストの多くを「書籍商」から借り受け、写本とすることで賄い、時には互いに書物を貸し借りしながら共同体のなかで「貸出」の機能を維持していた。しかし1250年、パリ大学教授のロベルト・ソルボンの寄付によって「ソルボンヌ・カレッジ」という学寮を創設し、図書館を設置した。蔵書の多くは寄贈によるものであったが、多くの教授らの協力で13世紀末には1000冊を超える蔵書が得られた。そして、1289年以降のソルボンヌ・カレッジには大図書室と小図書室が設けられ、前者には貴重な写本類が閲覧机に鎖でつながれて、置かれるようになった。なお、鎖から書物が解放されるのは印刷技術が発達し大量印刷が叶うようになって以降である。大図書室は必読書、参考図書を共同利用するための閲覧施設としての機能を果たしており、繋鎖式はその用途に即したものであった。つまり、高価な書物の盗難を防ぐこと、ひいては「知」の財産を守ることが求められた。
この頃になると多読書のために目次一覧や索引といったツールが整ってくる。小図書室には比較的安価な本が配架され、保証金が必要であったが館外への貸出も行われていた。こうした大学図書館の機能分離による運営方法は、以後のヨーロッパにおける図書館の一般的な形態になっていく。14世紀以降、大学は王侯貴族や教会の後援によって多数設置されていき、特に大学図書館の蔵書の多くは王侯貴族や商人、知識人からの寄贈により増やされていったのである。
この時代の「図書館」が持つ特徴は、先にも述べたように「大学図書館」として学問探求を支える施設として利用され、それらの多くが寄贈によって成り立っていたという点であろう。古代「図書館」の多くは王、政治的指導者などの権力者によって設立、運営されていた。そこには学術研究に資することや、多くの人々に公開されうる公共性も備わっていた。しかし、中世「大学図書館」には権力者らの支援と供に、教授や学生らの学問に対する熱意が「図書館」を形成するに至った歴史がある。また、原田が『図書・図書館史』において「過去の遺産を保存するだけでなく、一般に利用の道を開く役割は大学図書館に向けられる」と述べているように、図書館が人々に書物を通して「情報を伝達」する機能を現代まで繋ぐための重要な役割を果たしていたといえるだろう。
5 ルネサンスから啓蒙主義時代と「図書館」
大学という組織が、教会や修道院といったキリスト教の影響力から離れ、新たな学問や知識を求めることで、「ルネサンス」と「人文主義」をヨーロッパにもたらした。この時期、特にイタリアには古典の研究、分析のために各地から書物が集められていた。その中で、芸術家らのパトロンや人文主義者らは、多数の書物を収集し、またそれを支援した。例えばコジモ・デ・メディチは自身の図書館に多くの書物を蔵しており、写本収集家であったニコロ・ニッコーリを援助していた。彼は収集した書物を人々の求めに応じて公開、貸出を行っていた。彼の死後、その収集物の多くを引き取ったコジモは市民への公開を条件に図書館へ寄贈した。また、人文主義者のペトラルカの私設図書館はコレクションも群を抜いており、市民の利用を促進した。こうした個人による「図書館」の発展が「ルネサンス」や「人文主義」を担うことになっていたのである。こうして、人々の思想や文化、そして社会にまで大きな影響を与える、精神の転換期が訪れたのである。この背景にはグーテンベルクによる活版印刷技術の発明があることは忘れてはならない。15世紀頃になると、ヨーロッパ各地で書物の印刷が盛んになり、人々の精神へ強く働きかけたのである。
16世紀に入ると宗教戦争、農民戦争の激化を背景にヨーロッパ全土の修道院図書館が大打撃を受けた。800余りの修道院が破壊され、蔵書の多くは失われた。ドイツでは修道院に代わり、福音教会系の大学の設立が進み、そこは同時に活版印刷本を蔵書として収めた図書館も建てられた。
この頃フランスでは「王立図書館」、今日における「国立図書館」が創始された。フランソワ1世は1518年、フォンテーヌブローの居城に書物を収集し、22年にはそれらを収めるための図書館を設立した。1537年にはフランス全土の印刷物を王立図書館に納入させる「納本制度」が制定され、これがヨーロッパにおける義務納本制度の始まりであるといわれる。
17、18世紀のヨーロッパには「啓蒙主義」の時代が訪れる。諸科学、理性的思考法の発展に伴い「図書館思想が拓かれ、今日の「図書館」を形作る理念の源流となっている。例えばフランスのガブリエル・ノーデ著作の中で図書館の目的、蔵書内容、図書館経営、分類の必要性、建築物としての図書館、図書館の利用などを論じている。佃一可編『図書・図書館史』では、
「図書館は、学術的な図書を収集し、各人のために門戸を開き、入りやすく、それを必要とするどんな身分の人に対しても、決して利用を拒まない」という……近代の図書館の源流となった公開の原則という考え方の始まりになったといわれる。
とこのように紹介している。
また、ドイツの哲学者ライプニッツは、知識を個々の学問として研究するだけでなく「普遍学」として体系づけることを考え、図書館を「人間精神の宝庫」であると認識し、図書館の運営について予算の概念を導入し学術上価値のある新刊書を継続的に供給されること、綿密な目録により利用しうることや公開の時間・自由な貸出の利用を広げるといった意見を持っていた。
このように、ヨーロッパではルネサンス、啓蒙主義の時代を経て「公開の原則」や学術的利用、知識の収集といった現代に通ずる「図書館」のあり方を規定していったのだといえるだろう。
6 イスラム世界の「書物」と「図書館」
7世紀初頭、アラビア半島では預言者ムハンマドによってイスラム教が興され、以降アフリカ、ヨーロッパ、アジアへと大きく拡がっていく。イスラム世界はイスラム教と供にその勢力圏を拡大させていくのである。
そのようなイスラム世界において、「図書館」とよび得るものもまたイスラム教と供に出現する。それはイスラム教の礼拝所である「モスク」の附属図書館として登場した。モスクには学院(マドラサ)も附設され、礼拝と供にクルアーンを学ぶ学問の場所としても機能していた。8世紀中頃にアッバース朝が成立し、首都がバグダートに遷され、以後イスラム世界は隆盛を誇り、各地の都市にはモスク図書館が建設される。これらの図書館はイスラム教の平等思想に基づき一般にも公開されており、多くの人々が利用できた。そして、イスラム世界における図書館の発展に大きく影響を与えた出来事も、アッバース朝期のことである。それは中国(当時は唐)からの「製紙技術」伝来である。751年、タラス河畔の戦いに勝利したアッバース朝は唐人の捕虜から製紙技術を得るが、これはヨーロッパに比べて約400年早い。以降、イスラム世界では紙の生産が盛んに行われ、クルアーンだけでなく、ギリシア、ペルシア、インド、唐など多数の文献がアラビア語に翻訳され、記録されることとなる。また、イスラム世界において「図書館」は多くが「ワクフ」つまり寄付によって成立していた。これらの図書館において成熟した学問や文化は後に、ヨーロッパ世界へともたらされ「ルネサンス」と供に「図書館」のあり方に変化を与えることとなる。
イスラム世界において、「図書館」は成立段階において既に公共性を持っていたといえるだろう。イスラム教という宗教を通じて、多くの人々が書物や学問に触れることの出来る環境づくり、またそれらを維持するための寄付という行為は現代の「図書館」に通じるものがあるのではないだろうか。
7 中国「図書館史」
中国では古代以降様々な王朝や皇帝らによって典籍が国家的規模で収集・編纂されており、書物を管理する省庁、官吏はどの時代にも配置されている。特に前漢の武帝は「文書を起草し、国家典書を管理する」という方針のもと「大史」という職を制定し、以降の皇帝たちはこの方針を受け継ぎ、名称を変えながらも官府蔵書の拡大や、それらの整理・目録の編纂事業などに努めた。
隋、唐代になるとこうした宮廷の蔵書が「図書館」として大きな意義を持つようになる。中央集権の確立に伴い全国各地から広く書物が集められるようになり、官府蔵書が整えられていく。特に隋の煬帝は「観文殿」と呼ばれる図書館を建て書物を収めた。他に「妙楷台」には古書を、「宝台」には古画を「両道場」には仏教・道教の典籍を保存した。また、唐代ではこうした宮廷の図書館に皇族や貴族の子弟らを集めて政治や礼儀の学習の場とした。またこの頃には仏教典籍が寺院に大量に保管され、個人での蔵書も多数見られる。中には科挙を受験する者のためにその書物を公開していた者もいた。
北宋になると「館閣」と総称される図書館に蔵書が保管されるようになる。ここは皇帝、大臣、管理や特別に許可を得た者、殿試の受験生らが利用することができた。南宋では、館閣に皇帝の政務についてのレファレンスや国史編纂、図書校訂、目録編集、士族の子弟教育などを担わせていた。また、館閣の書物の貸出は厳しく制限されるようになる。元代では、南宋の蔵書を手に入れ蔵書拡大がはかられるが、江南の民間蔵書を徴集しようとするも、漢民族の文化人、知識人を冷遇していたためうまくいかなかった。この頃になると、科挙の定着や印刷技術の発達に伴う民間蔵書の増加などを受けて民間学校の「書院」が各地に生まれるようになる。「読書」と「講学」という2つの機能を有するものだった。特に朱熹の「白鹿洞書院」などが有名である。この書院は元代に入ると、元に仕官しなかった学者らが講学活動を行うようになり、一方で元は書院を統制下に置こうとした。書院ははじめ江南地域に集中していたが、後には各地に広まり地方の学術文化の担い手となり、蔵書規模は拡大していった。専任の蔵書管理者が配置され、貸出制度が整えられるようになり、目録編纂も行われた。また、印刷事業も盛んであり国の書籍印刷の業務を請け負う書院もあった。
明、清代において特筆すべきは個人の蔵書家がこれまでにも増して大きな規模で個人の蔵書を持っていたことであろう。図書編纂や学術研究だけでなく、芸術創作にも興味、造詣の深い彼らは様々な種類の書物を集め、充実した図書館を建てたのだった。こうした蔵書家は一族全体で書物を管理し、時には厳しい家訓や規約で厳重に取り扱う者もいた。特に清代の周永年という人物は「借書園」を建て、5万巻にも及ぶ蔵書を一般公開した。また彼は「儒蔵説」を提唱し、書籍を書院などに分蔵して一般に公開しようとした。こうした事業や思想は中国における公共図書館事業の先駆けとも言われる。そして、この頃になると中国に近代化の波が押し寄せる。その中で、清代の書院は中国近代化を支えることとなる。当初、清政府は漢民族の拠点となることを危惧して書院を弾圧したが、各省で書院が奨励され飛躍的に増加する。清代の書院はその役割から①理学中心に講学される書院、②経・史・詞章を研究する書院、③科挙を目的とした書院、④西洋科学を研究した書院という4種類に分類される。学生の増加に伴い図書需要も増し、図書室は重要事業とされ蔵書経営のための運営事項が細かく規定された。図書室での閲読や書物の利用、それらの指導経験は近代へと引き継がれ、清末に科挙が廃止されて以降は「学堂」と改められる。これが中国の近代化を支え、中国における大学の母体となった。
あとがき?
以上、世界の図書館史について概説しました。
先にも述べたように、参考資料の性質上どうしてもヨーロッパに偏ってしまい、イスラム文化圏やアジアについてほとんど述べられず、片手落ち感がはんぱないですね。
いずれは、資料収集からやり直して、特に今回ほとんど言及できなかった地域についても概説できればと思っています。
ということで、今回長くなりましたがご覧頂きまして、ありがとうございます。
本記事参考一覧
参考文献
・『広辞苑 第五版』岩波書店、1998年。
・岩猿敏生『日本図書館史概説』日本アソシエーツ、2007年。
・大串夏身・常世田良『図書館概論』学文社、2012年。
・樺山紘一編『図説 本の歴史』河出書房出版、2011年。
・高山正也・岸田和明『図書館概論』樹村房、2011年。
・佃一可編『図書・図書館史』樹村房、2012年。
・丸山昭二郎ほか監訳『ALA図書館情報学辞典』丸善、1988年。
・ヨリス・フォルシュティウス『図書館史要説』日本アソシエーツ、1980年。
・リチャード・ルービン『図書館情報学概論』東京大学出版会、2014年。
参考雑誌
・『図書館雑誌 vol.107(No.1-12)』日本図書館協会、2013年。
・『図書館雑誌 vol.108(No.1-12)』日本図書館協会、2014年。
参考論文
・川崎良孝「最近の図書館研究の状況-批判的図書館(史)研究を中心として-」『京都大学生涯教育・図書館情報学研究 vol.8』2009年、1-10頁。
・三浦太郎「日本図書館史研究の特質-最近10年の文献整理とその検討を通じて-」『明治大学図書館情報学研究会紀要 No.3』2012年、34-42頁。
参考HP
・朝日新聞社「コトバンク」
https://kotobank.jp/word/%E6%9B%B8%E7%89%A9-80626 (2015年1月20日参照)
・日本図書館協会HP「図書館とは」
http://www.jla.or.jp/library/tabid/69/Default.aspx (2015年1月20日参照)
・文部科学省HP「図書館法」
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO118.html (2015年1月20日参照)
・World Digital Library “About the World Digital Library”
http://www.wdl.org/en/about/ (2015年1月20日参照)