いつの間にか人生の主導権を自分以外の人間に売り渡してしまっていた私が、主導権は自分のものだと取り返すまでのストーリー
真面目、生真面目、馬鹿真面目。
めげない、しょげない、挫けない。
困っている人がいたら放っておけず、全て自分のことは後回し。
機転を効かすことが苦手で、何をやっても要領が悪く鈍臭い。おまけに何事においてもすこぶる運が悪かった。
だからこそ、かつての幼き日の私は、運など関係のない完全な実力勝負の世界で、今度こそ"幸せ"を手にしようと必死に頑張っていたのだ________
目次:
①搾取され続けた私の過去
②担当トレーナーとの出会い、転職活動の過程と結果
③最後に
【①搾取され続けた私の過去】
0.私のプロフィール
私の経歴については下記の通り。
【年齢】20代
【学歴】大卒
【家族】両親と私のみ
【職歴】???→未経験からの経理職
私はごくごく一般的なサラリーマン家庭に生まれ育った。
厳しく躾けられたせいか、立ち居振る舞いからよくお嬢様と言われるが、なんてことない一般家庭の一人娘である。
もともと私達一家は現住所に何の縁もなかったが、私が5歳の頃に父親の転勤に伴い現在の場所へ引っ越してきた。
おそらく、父親の転勤がなければ生涯移り住むことのなかった場所。
現在の私からすれば、就学後も引っ越す前の田舎に住み続け、長らくその土地で育った自分の姿など想像もつかないが、きっと狭い世界の中でそれなりの苦楽があり、それなりの人生で終わっていたことだろう。田舎特有の古い価値観に翻弄されながら。
しかしどういう運命か、良くも悪くも私はこの場所こそホームグランドだと自覚するようになるほど、長い時間現在の場所で過ごし、ここで育ったのだ。
これが人生の転機でもあり、それと同時に決して引っ越す前の田舎では到底味わえなかったであろう、沢山の苦しみを経験するきっかけにもなった。
1.引越し後の最初の転機
引越し後、まず最初の転機といえばそろばん教室に通い始めたことだろうか。
"教育熱心"と呼ぶにははるかに度を越し、もはや教育虐待を行っていた両親なら、引越し前の土地でも何かしらのそろばん教室に通わせていたとは思う。
ただ、幼稚園から小学6年生まで通い続け、その教室の選手コースで育てられていたかどうかはわからない。
当時はまだ未就学児の入学を断っていたそろばん教室だったが、母親の決死の懇願にとうとう根負けした恩師が特別に入学を許可して下さり、私は小学校入学前には入門コースを終わらせることができた。
教室への入学前は、指を折りながらでないと数えることができなかった私。
それが、そろばん教室に通い始めて数の概念を学び、九九と加算・減算・乗算・除算の珠の弾き方さえ覚えてしまえば、どんな桁数でも簡単に導き出せてしまうことに感動した私は、一度方法を覚えてしまった後は飛び級ですんなりと昇格できた。
そのスピードを見込んでくれた恩師が、知らず知らずのうちに選手コースに引き込み、小学1年生の秋には大会用の特訓も始まった。
後述する状況から、小学校ではあまりうまくいっていなかった私。
萎縮する環境下では得意なことも苦手に、苦手なことはもっと苦手に感じられるのはきっと読者の皆様も同じだと思う。私はその一つが体育だった。
とてつもなく運動神経の悪かった私はよく周囲からターゲットにされたし、おまけに言い返せる口もない。
そして家に帰れば、自身が身体的および精神的虐待を受けて育ったことにより常に精神的に不安定な母親が待ち受けている。
家庭の内外で自己肯定感の下がる場面が多い中、厳しい特訓ながらも私の存在価値を見出してくれたのが、このそろばん教室の恩師だと思った。
口が達者ではなかった私は、前述の通り幼い頃から家庭の内外で忍耐を強いられる場面があまりにも多かったため、皮肉なことに忍耐力だけはそう簡単に負けないほど育まれた。
その私ですら、さすがにしんどいと感じるほど選手コースの特訓は簡単ではなかったが、頑張ってしがみついた。
平日の特訓に加え、土日も返上で頑張った。
けれど、それでも最初の2年は選手として芽を出すことはなかった。
あと少しの点数が足りなくて入賞できなかった。
悔しかった。あれほど頑張ったのに。
けれど、そこでめげるような私ではなかった。
普段から近所の同級生からはストレス解消にと軽く扱われ、家庭では母親の学歴コンプレックスを解消させるための道具として育てられ、ありとあらゆる理不尽に耐え続けてきた私。
悔しい、悲しいといった負の感情をハングリー精神へと変換することには長け過ぎていた。
2度の大会で涙を飲んだ私は、自ら特訓時間を倍に増やした。
幸い、¥4,000の月謝で通い放題だったので金銭面においては何の支障もなく、あとは自分がどこまで頑張れるかの勝負だった。
通う頻度も5日/週へと増やし、一度足を運べば最低3時間は粘った。
他にも習い事を掛け持ちしながらの生活で、自分のために使える時間など皆無だったが、自分の時間があったところで、教育に悪いからと一切の娯楽を禁じられていた私に楽しめるものがあるとすれば、例外として許された某探偵漫画の単行本のみ。(この作品の登場人物の台詞により漢字を覚えられたのだと主張したことで、なんとか許可が降りた)
どうせ最初から自分のために使える時間や権利がないも同然なのだ。
だったら、せめて、自分の存在意義をより実感できるものに時間を費やしたい。
無我夢中で頑張った。
とうとう1時間あたりの月謝が半年連続で¥65を切る頃、私は初めて大会で入賞を果たした。
入賞を果たしたといっても小学3年生の部。
それでも、最後の最後で自分の名前が呼ばれた瞬間は、これまでの努力が報われたみたいで心底嬉しかった。
この1年後、私は小学4年生の部でも引き続き入賞したが、しばらく自分自身の階級が初段から停滞していたため、小学5年生以降は選手コースを離れ、自身の昇級のために時間を費やした。
そして珠算検定は弍段、暗算検定は参段まで上り詰めた私は、小学6年生の冬にそろばん教室から去った。
一般コースではないにしても選手コースとしては特別優秀な選手というわけではなかった私。
それでも、そろばん教室での経験は、私の人生における数少ない成功体験の一つ、そして年単位にわたるいじめの中で、なんとか自分の存在価値を見失わずにいられる精神的支柱となってくれた。
今この経験振り返った時、数ある習い事の中でなぜここまでそろばんを極めることができたのかと、改めて理由を考える。
そろばん教室しか居場所がなかったから。
母親みたいにその時々の気分で叱りつけるのではなく、私の努力を、価値を、正しく評価してくれた先生だったから。
元から苦手な運動だけでなく何においてもなぜか同級生から下に見られる私が(何故だか得意な勉強面でも下に見られていた)、堂々と胸を張って得意だと言える種目だったから。
母親の納得のいく結果を残せば、その時だけはヒステリックな母親も笑ってくれたから。
計算に集中していた瞬間は、学校や家庭での辛い出来事も一時的に忘れられたから。
本当はゲームで遊んでみたかったけれど買い与えてもらえず、そろばんの他に時間を忘れられるものがなかったから。
きっと、全部だ。
全ての理由が複合的に絡まって、そろばん教室の選手としての道が切り開かれた。
もしかしたら、引越し前の田舎のそろばん教室でもある程度は似たような経験はできたかもしれない。
しかし、小学校低学年の頃から近所の同級生の標的にされていたのは、元々の相手側のお人柄に加えて、引っ越してきたばかりで親子共々肩身が狭かったのも原因だったし、それがハングリー精神へと変換させる、私なりの社会におけるサバイバル術のきっかけになった。
"「痛い」がわからなくなるほど"忍耐強くなってしまったのは大変皮肉なことだけれど、母親だけでなく私の周囲には常に沢山の脅威となる存在があったからこそ、そのハングリー精神を注ぎ込んだ先のそろばんで私の能力は開花した。私の能力を正しく買ってくれた恩師に出会えた。
たとえ、他のそろばん教室で同じ結果を残せたとしても、その結果に至るまでの思い入れも過程もきっと異なるだろう。常に何事にも一生懸命に生きている私が、モチベーションを注ぎ込む先が1箇所に定まった時、どこまで頑張ることができるのか、この若さで知ることはなかっただろう。
そう思うと、そろばん教室に通えたことは、良くも悪くも私の大きな転機の一つだったはずだ。
そして、それがまさか後の転職先に大きく関係してこようとは、この時は露程も思っていなかった。
2.感情が麻痺していた私に、人間らしい心を与えてくれた人との出逢い
先程も軽く記載させていただいたが、母親は自身も虐待されて育った経緯により情緒が不安定で、母親の気分に振り回されるのは日常茶飯事だった。叱る時も、内容というより母親の気分で怒られたため、幼い頃からかなり混乱しながら私は育った。(父親は仕事に明け暮れていたため、母親のワンオペ育児だった。)
そして、同級生からの追い討ち。口が達者でないことをいいことに、かなりターゲットにされてきた。口が達者でないとはいえ、泣き寝入りは避けたかった私は、もちろん両親や教諭に相談したが、近所については親子共々ターゲットにされていたし、学校での出来事は事なかれ主義の教員が大変多かったため、十分な助けを得ることができなかった。
クラス全員対私という構図の中で休まず通うのは大変な苦痛を伴ったが、どれほど辛くても学生の本分は果たさなければならない、不登校を選択してはいけないと本気で思っていた私は、心を壊しても通い続けてしまった。
だってそれが規則なのだろう?
あなた方は助けてくれないが、それでも通わなければならない規則なのだろう?
私はこんな時にまで持ち前の真面目さを発揮してしまった。
辛かった。
けれど、辛いと自覚し叫んだところで、助けてくれる人がいないこともわかっていた。
ならば、辛いことを自覚する方が残酷だった。
そのうち、次第に"痛い"がわからなくなってきた。
このような環境に置かれたからとうとう麻痺したのか、それとも辛さを自覚する方が残酷だと気づいたから、自ら感情を麻痺させて少しでも生き残る術を探したのか。今ではもうわからない。
引っ越してきた当初から、近所の同級生より理不尽な目に遭い続けてはきたが、これが決定打となり、私は「所詮人間とは利己的な生き物で、利用価値がないと関わりを持とうとしない。相手には色々と求めるくせに、自分自身は顧みない大変都合の良い人々。悔しいけれど、その理不尽が罷り通ってしまう冷たい世界がこの現代社会。悔しかろうと淘汰された者がいつだって負けるそんな世界」というかなり歪な固定概念が形成された。
そんな私が、心を壊しながらでも生き残れたのは、そろばん教室に代わる新たな居場所を見つけられたからだった。
それは某進学塾だった。
公開テストを受けたことがきっかけで、入塾前から私を高く買ってくれた講師に出会えた私は、藁にもすがるような想いで入塾を果たした。
実際、学力面で躓くことはなく、むしろ得意なことを存分に発揮できた。そして、ありがたいことに、先に入塾していたメンバーは私を仲間として受け入れてくれた。
学校でうまくいっていなかった私にとって、塾で過ごす時間は束の間の休息になった。
塾で過ごす時間と学校で過ごす時間が逆転していたら良いのに。
そう願う私に、心から信頼を寄せていた講師は幾度もこの言葉を囁いた。
「辛いけれど、今頑張って"良い高校"に行けばそんな下らないことをする人はいない。
"良い高校"に行けば 絶 対 に 幸せになれるからね_____」
両親以上に信頼していた人の言葉だ。
本気でその言葉を信じた。
高校受験こそが現状を覆す人生の転機になると信じ込んだ私は、それはもう努力した。
得意なことをより得意にできるように。
そして、その塾で後の人生において道標となる人に出逢えた。
努力を決して怠らないその人は、カリスマ性など私にないものも沢山持っていた。
あんなに誰かを好きになれることなんてもう二度と訪れないんじゃないかと思うくらい、私はその人の人間性に惚れ込んだのだ。
奇しくも、目指す高校は同じだった。
これは何が何でもその高校に行かなければならない。
私のモチベーションは最高潮に達していた。
結果として、私と憧れのその人は別々の高校に行った。
私は当初より狙っていた高校へ。
その人はさらに上の高校へ。
同じ高校には行けなかったが、そもそもが最初から最後まで私の片想いに過ぎなかったし、何よりもすっかり冷めきっていた私の心に、人間らしさを与えてくれたため心から感謝している。
裏切りや搾取が当たり前で、長い間、苦しい、辛い、しんどい、悔しい、悲しい、痛いしかわからなかった私に、人としての優しさや思い遣り、そして許すことを教えてくれた人だった。
全部、その人を好きになったから理解できたのだ。
3.絶望の高校生活と家庭状況の一変
さて、ちょっとは人間らしくなり、当初から志望していた高校にも合格したものの、そこでの高校生活を私は楽しむことができなかった。
何せ、期待しすぎたのだ。
かつて、絶大な信頼を寄せていた塾の講師に、レベルの高い高校に行けばしょうもないことをする人間から解放されると教え込まれていた私は、きっと塾で出逢えた仲間達のような人々と、高校でも出逢えるに違いないと信じて疑わなかった。
ところが、実際は異なった。
さすがにあからさまに特定の人物を虐めるなんてことはなかったが、教室に漂う空気がどうにも異様なのだ。
聞けば、学年全てのクラスがそういうわけではなく、あくまでも私のクラスのみ。
何となく気味が悪く感じた私は、同じ部活へ入部を検討していたクラスメイトに声を掛け、その子と一緒に過ごしたことで厄介なことに巻き込まれずに済んだのだが、後にその不穏な空気の正体が、ターゲットをコロコロと変えながらSNSでの悪口が横行していたことだったのだと知った。
まさかと思った。
信じられなかったし、信じたくもなかった。
私が何もかもを差し出してまで何年間も努力し続けた意味とは?
" 絶 対 に "幸せになれるんじゃなかったの?
こんなもののために、私は全てを犠牲にしてきたの?
ただ現状を変えたい、幸せになりたいがための一心でここまで努力してきたのに。
けれど、そもそも"幸せ"って何?
"幸せ"という言葉は、あまりにも抽象的過ぎない?
"絶 対 に"という言葉もそりゃ使うだろう、どれだけ信頼を寄せる先生だろうと、塾はあくまでビジネスなのだから。
つまり、その確証のない言葉を信じて疑わなかった私の方が馬鹿だったのだ。
それに気づいてしまったら、もう何もかもがどうでも良くなってしまった。
自分の努力次第で100%どうにかなる物事ならまだしも、そこに自分以外の要因が絡むような不確かなものは信じなくなった。
"絶対"という言葉を避けるようになった。
モチベーションの全てを失った私は、とうとう何もかもに無気力になってしまった。
悪いことに、時同じくして家庭環境が一変した。
それまで、経済面を心配したことはなかったが、家のローンと親戚問題を巡って夫婦喧嘩が頻発し、帰宅すれば毎日怒声が鳴り響くようになった。
すっかり何もかもに疲れ切っていた私は、せめてもの最後の親孝行として夫婦喧嘩の仲裁に入った。
だって、たった3人しかいない我が家で、私が止めなかったら一体誰がこの夫婦を止めてくれるというのだろう。
本当は行政に頼りたかった。だが、世間体を気にする母親がそれを良く思わないことも、それが原因で拗れかねないことも容易に想像できたため、一人娘として耐え続けた。
しかし、その努力も虚しく、夫婦喧嘩は苛烈を極める一方だった。
もういいや。消えてしまおう。
それが実行に移されなかったのは、この高校で唯一の宝と言える大親友に出逢えたからだった。
私の様子が変わったことを両親でさえ見抜けなかったのに、その人だけは見抜いてくれた。
自分のことだけで精一杯な両親は私のことなんて見えてなかったのに、その人はもがく私の姿を見てくれていたのが、素直に嬉しかった。
その人がいてくれたから、私はこの歳になるまで生き永らえることができたのだ。
4.前職へと繋がる大学時代と重く苦しいコロナ禍の到来
長く苦しい3年間を、その大親友のお陰でなんとか乗り越えた私だったが、乗り越えるところまではできても、その先の将来など投げやりに考えていた。
より正確に言うと、自分の将来を考える気力は微塵も残っていなかったのだ。
女一人で生きていくためには手に職だと母親に勧められるがまま、とりあえず看護学部に定めた私は、浪人する気もなかったので併願で受かった医大に進学した。
ただ、入学当初から考えていたのは、「病棟看護師ではなく行政保健師として就職すること」。そのために、成績上位者であれば保健師のコースも選択できる大学に絞った。
今思うと、既にあの頃から、病棟で働く自分の姿など想像できなかったのだ。
もちろん、保健師国歌試験に合格できたところで、看護師国家試験にも合格していなければ臨床において不採用となるため、国家試験を2つ掛け持ちというかなりのハードワークだった。
しかし、私にとって国家試験よりも圧倒的に辛かったのが、実習とコロナ禍の到来だった。
情報漏洩防止の観点からPCの使用を認められず、電子カルテより得た膨大な量の情報とそこから導き出したアセスメントを全て手書きで記入しなくてはいけない。当然、膨大な時間を要するため睡眠時間が4時間で耐え忍ぶ日々が半年間続いた。しかも、精神面でも体力面でも最も過酷とされる3年の実習が、ちょうどコロナ禍真っ只中だったのだ。
まだ免許を取得していないとはいえ、病棟に出入りさせていただく身。感染対策は現役の医療従事者と同様に講じる必要があった。
SNSには医療とは無関係の人々が久々の外出を楽しむ画像が次々と投稿される。
一方で、私達はその"久々"すら、患者様を危険に晒す行為となるため、本当にシビアに感染対策を遵守した。
私だって遊びたい盛りの年頃だ。期間限定のアフタヌーンティー、コンサートといったエンターテイメント、旅行、友人との飲食。
2020年はまだコロナ禍が到来して間もなかったこともあり、自粛ムードが存分に漂っていたが、2021年にもなると、徐々に外出を楽しむ人々の姿が増えてきた。
そんな中で、医療関係者をはじめとするエッシェンシャルワーカーは未だ徹底的な完成対策を講じなければならなかった。
辛かった。数少ない友人の中には1人も医療業界の人間がいなかったことが、孤独感に拍車をかけた。「でも自分が医療業界を選んだんでしょ?」と言われる度、「この前ここに行ってきたの!」と言われる度、心が張り裂けそうになった。
日に日に周囲との価値観に大きな溝が生まれていくのは火を見るよりも明らかだった。
価値観の違いが原因で、古くからの付き合いの友人や当時お付き合いしていた人と別れた。
行きたくても許されることのないコンサートも、知りたくもなかった推しのプライベートも、これ以上傷つきたくなくて推し活を封じた。
「私だって本当は遊びたい」という本音が湧いてくる度、必死に押し殺して我慢した。
我慢が限界を迎えそうになる度、十分に家族と会えないまま亡くなっていく患者さんの姿が脳裏を過ぎったから。
己の良心に従った結果が、買い物以外での一切の外出を封じることだった。
しかし、いくら忍耐強かろうと、年単位で我慢に我慢を重ねていれば、やがて限界はすぐ目の前にまで迫っていた。
実は私は当初より志望していた高校には合格したものの、第一志望の学科には不合格を食らっている。その際、普段から私のことを一方的にライバル視していた同級生に満面の笑みで皮肉を言われたことがあった。
そして、大学受験時は受験勉強に打ち込むエネルギーなど微塵も残っておらず、らしくもなく不真面目な取り組みとなってしまった。
そんな経緯があるからこそ、コロナ禍真っ只中で迎えた国家試験には、相当な思い入れがあった。」
____もう二度と、苦い思いはしたくない。
何もかもを捨てて朝から晩まで過去問を解く私の表情は真剣そのものだった。
気心知れた仲間の中で、私一人だけが自由に遊べない悔しさも、コロナ禍での実習だったからこそ目の当たりにした壮絶な別れの瞬間も、全部全部国家試験にぶつけた。
ぶつけてぶつけてぶつけて。
国家試験10日前に、燃え尽きてしまった。
結論から言うと、国家試験とプライベートで起こった出来事が、非常にまずいタイミングだったのだ。
価値観の乖離を理由に縁を切った友人は数知れずだが、その中で最も付き合いの長かった子との間に緊張感が走り始めたのが、ちょうど国家試験2ヶ月前。
ただ、その時はまだ完全に縁を切っていなかった。
私自身も、国家試験がひと段落すれば、改めて話し合ってみるべきだと考えていた。
だからこそ、彼女には「国家試験が終わるまで待っていてほしい。今連絡を寄越されると、どうしても蒸し返してしまって気が散るから」と伝え了承を得ていたのだった。
ところが、その約束を裏切る形で年賀状が届いた。
年賀状には「連絡しないでって言われてたけど、どうしても応援したくて」と綴られていた。
私はその一言に腑が煮え繰り返った。
学生時代から私以上に自分の意思を曲げなかった彼女。とても諦めが悪く時に強引だけど、あの頃はそれも彼女の良いところだと素直に思えた。
けれど今は違う。
私はあの時きちんと、気が散るから何も連絡しないでほしいと確かに伝え、承諾も得た。
しかし実際はどうだ。
"応援したいから"と年賀状が届いた。
しかし、私のことを本気で応援してくれるのなら、国家試験に集中させてほしかった。
彼女の"応援したい"とは、私にとっては彼女の自己満足に過ぎなかった。
そればかりか、私の心をこれでもかと掻き乱した。
そうなってしまった原因が、長く付き合ってきた彼女からの年賀状だったという事実が、無性に腹立たしくて悲しかった。
あろうことか、悲劇はこれで終わらない。
精神的に非常に不安定になっていたのは、私だけでなく私の母親もだったのだ。
元から母親はことあるごとに精神的に不安定になりやすいため、今に始まったことではないが、年末から年始にかけ、母親もまた自身の母親(私にとっての祖母)からメールを寄越されたことにより普段以上に荒れ狂っていた。
母親が祖母から受けた数々の仕打ちを虐待であると認識してからは実家とは縁を切っており、金輪際連絡も寄越すなと伝えてあったのだが、自身の行いを虐待だなんて露ほども認識していない祖母は、気まぐれに母親にメールを打ったのだ。
メールが届いてからというもの、我が家では私が高校生だった頃の夫婦喧嘩を凌ぐ勢いで、再び夫婦喧嘩が勃発した。
普段以上に荒れ狂う母親に、それを受け止めきれず反撃する父親。母親自身これまでの経験から、祖母から連絡を寄越された後は暫く情緒が乱れること、そしてそれは自分では全く制御が効かないこと、その状態の自分はとにかく"普通じゃないこと"を自覚しており、祖母からメールが届いた直後に、父親にこの旨を伝えていた。「きっと荒れるだろうから、受けて止めてほしい」「無茶苦茶なことを言っている自覚はあるけれど、今の私は普通の私じゃないから、私が何を言っても許して耐えてほしい」「あの子(私)の国家試験まで我慢してほしい」と。
しかし、なんせ母親はとにかく口が悪いのだ。おまけに父親も年齢のせいなのか、最近になってひどく怒りっぽくなった。
そうなると母親が事前に願い出ていた夫婦の約束が反故にされるのは自然なことで。
過去問を解くその傍で毎日怒号は飛び交った。
詳細は割愛するが、母親は母親で父親に対しこれまでの20年余りで蓄積された不信感が根底に蔓延っており(ワンオペ育児、大病を患った際の心無い言葉etc…)、父親は父親で母親を受け止める余裕もなければ、母親の度を超えた言葉の数々に不満を募らせ大爆発。
はっきり言って地獄絵図だった。
既に友人のことだけでも私の心は悲鳴を上げていたが、それに加えての毎日繰り広げられる両親の喧嘩。
そんな中でも国家試験は待ってくれないため、飛び交う怒声を聞きながら朝から晩まで試験勉強に齧り付いた。
そして本番1ヶ月前には、何も症状がなくてもCOVID-19の濃厚接触者に該当すれば受験できないという大学からの通達。
コロナ禍の中、どれほどの想いで試験勉強を続けてきたというのだ。
試験勉強だけでない。まず受験資格を得るために実習だって頑張った。
それも、例年とは違いリフレッシュが一切許されない環境の中で。
ここにきて受験できないという展開に見舞われたら冗談じゃない。
通達を受けた後は、自宅ですら24時間マスクを着用し、3食すべて両親とは時間も場所もずらして一人で食事を摂った。
聞こえるのは怒声だけで、何の癒しもない極限状態の生活を送りながらひたすら過去問を解き続けた。
けれど、現実とは無情なもので。
ある日の夫婦喧嘩を皮切りに、必死に必死に押し殺し耐えてきた私の心は、とうとう国家試験10日前になって死んでしまった。
実を言うと、この日を境に記憶障害を起こしてしまったため、この後のことはあまり覚えていない。
ただ覚えているのは、堪忍袋の緒が切れた私が「もう国家試験受けないから!あんたらが責任とれ!」と泣き叫びながら生卵4つを父親の部屋の扉に投げつけたこと。
そしてその直後、父親が私に言い放ったのが「わかった、じゃあ内定を頂いた病院にご迷惑をお掛けするから謝りに行く」という検討外れすぎる発言に、娘の気持ちよりも世間体の方が大切なんだなと乾いた笑いしか出なかったこと。
何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、それまで何を差し置いても頑張ってきた試験勉強をぱったりとやめてしまったこと。
お腹も空かず、スマホをいじる気力もなく、ただ絶望感と虚無感の中、1日中布団に横たわり続けたこと。
その時、永遠にも感じられるほど時間の流れが遅かったこと。
散々国家試験の邪魔をしておきながら「貴方のためだから」と支離滅裂な物言いで押し付ける母親の手料理を見るのも嫌で、1日に1食だけカップラーメンを啜っていたこと。
みんな、「どうしても私を応援したくて」という言葉を吐きながら、真逆の仕打ちを行ってきたこと。
そしてあたかも当人には悪気がなく、そればかりか"善意で"それらを私に押しつけたこと。
彼女達が、己が仕出かしたことの支離滅裂さ、言葉と行動の一貫性のなさに気づいてすらいない不気味さ、無神経さに吐きそうになったこと。
そしてそれをしたのが、他でもない私の友人と両親だったこと。
結局、あの日を境に全く勉強をしなかった国家試験は、失意のまま保健師も看護師も受験することになり、2つとも過去最高得点で合格した。
自分自身の記憶と心はとうに失ってしまったというのに、試験内容だけは抜け落ちなかったのは、とんでもない皮肉だった。
私には素直に喜べない合格通知とお金の計算すら困難になった脳みそだけが残った。
ここまで過去を詳細に綴った文章をご覧になった皆様なら、記憶を失ったなんて嘘だろと思うかもしれない。
しかし、今綴っている文章は、少ないなりにもあれから幾分か記憶を取り戻しつつある私が書いていること、そして元々私は、誰からどんな場面でどんな口調で何を言われたか一字一句余すことなく再現できるほど記憶力が良かったため、それに比べれば今は圧倒的に記憶が抜け落ちてしまっていると言える。
とても働ける状況でないのは誰が見ても明らかだったが、新卒カードを切れるのも人生で1回きりのため、無理に無理を重ねて働いた。
コロナ禍により、新卒での就職は諦めざるを得なかった保健師としてのキャリア。
代わりに選んだ病棟看護師は、元から自分自身で働いている姿を想像できなかった通りで、殺伐とした人間関係の中、なんのやり甲斐も感じられず、自分の長所も発揮できず、ただでさえ悲鳴を上げていた心とほとんど底をついていた自己肯定感をさらにすり減らすだけだった。
今思えば、あの状態でよく1年も働けたと思う。
次の仕事も決まっていなかったが、とにかく自分にこれ以上傷を負わせたくなくて退職を決めた。
退職後はお金も時間も何も考えず、コロナ禍以来散々我慢してきたことを、他人が楽しむ様子を嫉妬と憎悪に塗れながら眺めてきたことを、まるで長きに渡り心が空白だった時間を取り戻すかのような勢いで楽しんだ。
誰にも邪魔されず、誰にも指図させない、私のためだけの時間。
それがどれほど心の健康のために必要か、ようやく理解できた。
きっとその時が、生まれて初めて自分の人生に主導権を持てた瞬間だったかもしれない。
思えば四半世紀、ずっと辛かった。
両親の期待する成績を維持しなければならず、両親が悪と見なす娯楽には触れることを許されず、どれほど辛くても学校を欠席してはならず、コロナ禍により医療従事者はプライベートを制限される一方で、外出して感染した人間をケアしなくてはならず。
唯一居場所が与えられる瞬間があるとすれば、それは相手の要求を叶えた時だけ。
もう限界だった。
今までだって散々周囲から私の存在を軽く扱われ、私自身もまたそれが“よくあること“と誤認してしまっていたから、自分の人生の主導権をやすやすと他者に委ねてしまっていた。
それが異常であるとも気付けない環境だったが故に。
けれどそれが異常であることも、他人に人生の主導権を渡し隷属してしまうことの怖さも、そしてそれがセルフネグレクトに該当していたのだとポジウィルを通じ理解できた今なら、きっともう選択を誤らない。
嫌なことは嫌だと言える。
そして以前よりも早い段階でSOSを出せる。
べき思考に囚われず己の気持ちを優先することが、こんなに生き辛さを解消するだなんて知らなかった。
もっと早くそのことに気づけていたら、短い半生の間で3度も心を壊さずに済んだかもしれない。
否、気づかずに過ごしていたから、今の私があるのだろう。
他人から沢山虐げられて育ったからこそ、私は相手には同じことを繰り返すまいと思える。
得意だった内容で挫折することの辛さを知っている。
あの日消えてしまおうと思ったから、本音で話せた友人がいる。
そう思えるようになったのは、やはりポジウィルによるところが大きいだろう。
職場のカウンセリングも何度か受けたことはあるが、時間も限られていることから、人生全部を掘り下げてまで介入することは不可能だった。
しかし、当人が抱えている生き辛さや問題は、これまでの人生にその根幹が横たわっているからこそ、本当は切り離すことができないはずなのだ。
それを実現させたのがポジウィルだった。
【②担当トレーナーとの出会い、転職活動の過程と結果】
退職後、COVID-19が5類移行した後はようやく外食や旅行を解禁した私。
5類に移行したとはいえ、実習中や勤務中のショッキングな場面を忘れたわけじゃない私は、相変わらずの1人行動、食事中以外は常にマスク着用という徹底ぶりだが、それでもずっと我慢してきたカフェ巡りや遠出を存分に楽しんだ。
自分の思うままに過ごし、幾分か満足してきた頃、その出会いは唐突にやってきた。
ずっと満たされないまま放置してきた心もようやく満足してきたし、そろそろ転職活動も視野に入れるか…と考え始め、いくつか転職サイトにも登録した頃、たまたまInstagramに流れてきたポジウィルの広告が目に止まった。
とりあえずHPを確認すると、単に転職活動を支援する組織ではなく、これまでの人生丸ごと焦点を当ててその後のキャリアを一緒に考えるという趣旨が綴られており、「これは…!」と感じた私はすぐに詳細なプロフィールの添付と初回無料面談の予約を取り付けた。
そのプロフィールを元に手を挙げて下さったのが藤井さんだった。
藤井さんは、職場のカウンセリングでは掘り下げることができなかった過去も丁寧に拾い上げ、そして受け止めて下さった。
これが従来のカウンセリングとはどれほど異なったことか。
藤井さんが私の過去を受け止めてくれているという安心感があるから、アドバイスもスムーズに心の中に流れてくるし、何より面談を重ねる中で「藤井さんは私のことを傷つけるような人ではない」という信頼があるから、腹を割って話せる。
本音で話せるからこそ、より的確なアドバイスが返ってくる。
結果として私は、未経験で経理職に転職した。
他社のアドバイザーからもいくつか事務職を勧められてはいたものの、やはり決定打となったのが、藤井さんからのアドバイスであった。
ポジウィルは求人紹介を行っていない分、100%契約料から収入が賄われる。
つまり、アドバイザー自身の都合を加味させることなく100%契約者の味方でいてくれる点もポジウィルを契約した決め手だった。
契約時こそ貯金が痛かったものの、今ではとても満足しているし、75日間ご担当して下さった藤井さんにとても感謝している。
先程の経理職を勧めて下さった例で言うならば、勧めて下さる際の根拠の深さが流石藤井さんだと思う。
①一つの内容に長時間打ち込むこと自体は苦ではなく、むしろそろばんなどといった得意な事柄であれば、苦労も苦労と思わずに何時間でも打ち込めるところ
②そろばんを習っていた経験などから、数字を正確に扱うことや細かい確認作業が得意であること
③そして前職が向いていなかった理由を分析したところ、ナースコールなどといった外部要因の存在が大きく、仕事量を自分でコントロールできない状況が、より仕事を辛く感じさせていたという構図が浮かび上がり、それを踏まえると今後は比較的外部要因の少ない職種の方が長く勤められる可能性が高いということ
④事務職の中でも一般事務より経理職の方が学び甲斐があって楽しみながら仕事ができるのではないかという、これまでの私の過去を踏まえた予想。
現在で入社後5ヶ月が経過したが、それらは驚くほど当たっていた。
まず前職とは異なり、肉体労働ではない分エネルギーの消費の仕方が全く異なる。
仕事内容は現在覚えている最中で、難しいと感じる場面もあるが、前職であればできなかったらどうしよう、これで患者さんに影響があったら…とすぐに不安に陥っていたのが、今なら「ミスをしたところで命に関わるわけではない。それに私なら、次回同じ状況に陥った時には、これをものにできている気がする」と前向きに取り組むことができる。
また、細かいところを気にする性格は、経理職において大いに役立った。元はと言えば、ある人はこう言ったのに対し、別の人(もしくは別の日の同一人物)は真逆のことを指示したことで板挟みになり(=ダブルバインド)、結局全て私のせいにされるという理不尽を幼い頃から何度も味わってきたことで、言質をとる癖がついた。
言質をとるなど細かく確認すれば、それを原因に私を責めるのはお門違いだと証明できるからだ(それでも「うるさい!」「あんたみたいなのが生意気な!」と無茶苦茶な人間は後を耐えなかったが)。
元はと言えば、これまでの人生から身に付けた、自分を守るための術からスタートした細かい確認作業。前職では臨機応変さやスピード、要領の良さの方が好まれ、ほとんど評価されることのなかったこの能力が、経理という業種において長所として活かせたのは非常に嬉しかった。
加えて、大変ありがたいことに、現在の職場はとても人間関係に恵まれているため、スムーズに報連相を取ることができるのだ。
今まで自分は、報連相が苦手な人間だと思っていたのが、萎縮しない環境ではスムーズに言葉が出てきたことに自分でも驚いた。
あの時藤井さんを信じて良かった。
Instagramで流れてきた広告を読んだ時、普段は何をするにも慎重な私が、あの日ばかりは重い腰を上げて応募したのだ。
これまでの人生、じゃんけんで勝てたことなんて数えるほどしかなく、何年間も入り続けた推しのファンクラブでさえ、1回たりとも自名義でイベントを当たったことがなかった私は、今までずっと運の悪い人間だと思っていた。
けれど、ここぞという大事な場面で、運が発揮された。
あの時広告を見て行動できたからこそ、現在の場所へ転職できた私がいるのだから。
一人で転職活動ができる人はもちろんいるだろう。
私ももしかしたら一人で転職活動しても成功していたのかもしれない。
しかし、ものすごく自己肯定感の低かった私が、はたしてここまでスムーズに物事が進んだだろうか。
未経験転職ゆえに沢山落選したし、ここには書けないショッキングな出来事も相まって途中就活がストップしてしまうことが4〜5日間ほどあったけれど、藤井さんは決して私を見捨てなかった。
再起できるその時まで、焦らせるわけでも、かといって見放すわけでもなく、ただひたすらに見守り続けていてくれた。
再び動き出した時、それをすぐに察知した藤井さんがメッセージを下さったのがとても嬉しくて、転職活動を再び頑張れた。
そして第2弾の転職活動で掴み取ったのが現在の職場なのだ。
前職のように疲れた身体に鞭打って嫌々勉強することもなく、むしろ自ら進んで振り返りを行うし、休日に外出できる余力もある。
何より職場に赴く足取りの軽さが前職とは全く異なる。
今までは過去の生い立ちから、何かしらメリットがないと私の接してくれる人はいないと思い込んでいた。両親とて成績という条件付きの愛だったし(両親が異常といえるほど成績にこだわったのは、良い高校に行くことで私に幸せを掴み取ってほしかったのだと主張するが、あのような物言いと接し方を受け止めてきた私からすれば、条件付きの愛だった)、クラスメイトが寄ってくるのは丁度いいストレスの吐け口が転がっているから。
いつしかすっかり歪な人間に育ってしまった私には、お互いのメリット・デメリットが明確に提示されている関係性の方が、それ以上探りをいれる必要がなくて楽だと感じるようになってしまった。
皮肉なことに、ポジウィルと契約に踏み切れたのは、実はこの認知の歪みも関係していて、契約者が100%お金を出すというメリットが明確だったが故に、契約者である私と真剣に向き合ってくれるという仕組みに安心感を覚えたからだった。
けれど、それはもう過去のこと。
今はもう、自分の生きやすい方向へ進むと決めた。
誰かを恨むことはハングリー精神といった形で時に原動力にもなり得るが、同時に自分自身のエネルギーすらも奪ってしまう。
たしかに、これまでの認知の歪みが幸せを遠のけた場面もあれば、危機を回避した瞬間もあっただろう。
でも、かつてのその認知の歪みがポジウィルとの契約に踏み切らせ、そして認知の歪みを修正していった。
プラスマイナス0に相殺されたのなら良かったじゃないか。
今までは認知の歪みに助けられた。だって、そうするしか生き残る方法がなかったのだから。
しかし、かといってこれまでの過去を否定する必要はない。
否定しなくて良いのだとポジウィルを通して知った。
そして、その過去を受け止めた上で前へ進む術も教わった。
自分の気持ちを大事にして良いのだと知った今が、もしかしたら私のこれまでの人生で一番満たされているかもしれない。
【③最後に】
実は、大学で精神看護学のゼミに入った私は、認知行動療法と看護をテーマに卒業論文を書いている。
「治療のために過去の体験を思い出す過程は、時に大きな苦しみを伴う。だからこそ、治療以外の場面でも患者と接する時間が多く、患者の様子の変化を感じ取れる看護師が、よりチームに介入し患者の理解者となりうることが、より治療の成功率を高めるのではないか」と締め括ったその卒業論文は、まさに数年後の自分自身の伏線になっていたのではないかと今では思う。
ポジウィルと契約したことで、単なる転職活動に終らず、人生の生き方という根幹に目を向けることができた。
それは時に過去の数々のトラウマとも直面しなければならなかったが、決して独りではなかった。
藤井さんという最高の理解者が伴走者となって下さったからだ。
だからこそ、私は20代のうちに人生の主導権を取り戻すことができた。
あの頃の生き辛さとはかけ離れた、心穏やかな日々を手に入れることができたのだ。
もし、一度はこの世界から消え去ることを決意したあの日の自分に、一声掛けれるとしたら何と声を掛けよう。
他者に都合の良いように利用され、幾度となく傷つけられ、すっかり疑い深くなっていた当時の私に、どれくらいその言葉が届くかはわからない。
けれどこう投げかけてあげたい。
「10年後、今の貴方にとっては気の遠くなるような時間かもしれないけれど、今の辛さや苦しみが相殺される日がくるからね」と。
これからポジウィルを契約される皆様が、少しでも今より良い未来を手にすることができることを祈っております。
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