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三浦瑠麗氏の本を読んで―わきまえた女に冷めてしまった女性

 最近、テレビ出演はしなくなったと噂で聞くが一時期は、「テレビの政治部門」というきわめて男性的な空間で、非常に優秀な才能を発揮しその中で「わきまえた女」のポジションを確立していた三浦瑠璃氏について述べてみたい。
 私は彼女と1歳違いだ。そしてキャリアも似ている。顔を合わせたことは一度もないが、彼女がどう20代を生きたか、特にアカデミックな世界で彼女が体験したことは、同世代として肌感覚でとても理解ができる。まったく主義主張に感心はしないし、主張もよくわからないものばかりなので、応援はできなかったが、彼女がああなっていった背景については一人の同世代を生きた人間として共感を持って理解してきた。
 この度、発注を受けたので三浦さんの本を改めて読む機会があった。そこで現れる「男性たち」への彼女の「言及の仕方」を見て、「やっぱりね」と思った。彼女の著作には彼女自身のプライベートのこと、セクシュアリティに関わることが実に赤裸々に語られている。その中には、どう見ても、深刻な事件もあるのに、実に”あっけらかん”とそれらが言及されている。
 私が圧倒されたのは、湘南高校在籍時に交際していた男子(年上の)の描写だ。避妊具を自分で買いに行く勇気もない甲斐性なしのくせに、大言壮語しプライドだけは高く、最後はストーカーまがいのことすらして彼女に離縁を改めるように迫る。彼女は驚いた様子でもなんでもなく「それがなに?」という体である。私も同じ時代を同じような場所で生きた人間としてこのエリート男子学生のしょうもなさは肌身をもって共感する。彼女の著作は全てこの調子で進んでいく。
 この男性諸氏への「あきらめ」、そして同時に、まったく登場しない「女性同士の関係性」の切り捨て方。立身出世のみを追いかけ、何もかもをもそれに捧げた女性の独白とも違う「何か」。ここに彼女の、特異性があると思う。自身の「成功」を誇りながら、「それがなに?こんなものがなに?」といわんばかりのあきらめた顔。
 彼女は一貫して「ブランド志向」であり、それに勤しむことに余念がない。自分の女性性(性的観点からの)への強いこだわりと、一方で、それっぽく聞こえる一方でまったく中身のない話の内容。典型的な「わきまえた女」として男性社会でふるまい自信の地位を高め「成功」した人間であるのにも関わらず、成功体験を威をかざして自慢するわけでもなく、まるでそれでは幸福ではない、といわんばかりの書き方。
 私は思った。彼女はこの本を、誰に読んでほしいのか、と。男性諸氏に読んでもらいさらに、自信の評価を上げたがっているのか。あるいは、自分に敗北感を味あわせた同性の何者かへ書いているのか?まったく彼女が想定している「読み手」が理解できない。男性諸氏は、「湘南高校のセンパイ」よろしくこの本を読んで愉快になることはないだろう。一方で女性はこの本をそもそも手に取らないのではないだろうか。男にこびて成功した女の話などいつも聞かされていることであり改めて聞きたくもないからだ。
 私が思うに、この本は、殺してしまった彼女自身への鎮魂歌なのだろうと思う。彼女がいつ彼女自身を殺してしまったのかはわからない。あるいは、自分でも知らないうちに殺してしまい、ここまでの成功を収めながらもなお、自分が不透明な存在にしか認識できないのかもしれない。誰もが彼女を愛さなかった。男性も女性も家族も友人も。誰もが彼女を許さなかった。せめて自分だけは自分を許したい、私は悪くない、仕方がなかったんだ、こうする以外どういう生き方があったの?と。
 不意にボブ・マーリーの”One love” が私の脳内で流れた

Let them all pass all their dirty remarks (One love)
There is one question I'd really love to ask (One heart)
Is there a place for the hopeless sinner
Who has hurt all mankind just to save his own?
Believe me
One love, one heart
Let's get together and feel all right

全ての雑念は捨てよう(一つの愛)
一つだけ教えてほしいことがある(一つの心)
ただ自分自身のために誰かを傷つけてしまうという罪をおかし
絶望にあけくれているものにも、そこに居場所はあるかい?
信じてほしい
一つの愛 一つの心
集まって”大丈夫だよ”と感じ合おう

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