いたいけな僕、相対的私。

齢18年生きてきた私ですが、未だに幼稚園児の頭から変わっておりません。もちろん、自分のこだわる音楽やファッション、人付き合いなどは年々感性が研がれていると思うのですが、いかんせん思考回路は変わらないようでして。
簡潔に言うととても気分屋なのです。
興味のあることしか考えてない、と言った方が正しく伝わるかもしれませんが。
世の中はめくるめく日々の連続で変わっていきます。そんな日々の中で変わらずにいるのはとても大変なことなのかもしれません。しかし私の場合は変わらないのではなく、変われないのです。
ずっと、残酷にもなれず優しくもなれない。
人として未熟な状態なのです。おそらく。
そこで題名に行き着くわけです。
いたいけな僕、相対的私。
いたいけ、は漢字では幼気と書きます。
幼気は、幼くて可愛らしい様、子供のいじらしさという意味があるのと裏腹に幼稚で愚かな様という意味もあります。私は前者でしょうか。後者でしょうか。
18年生きてきた身としては、どちらも良いとは言えなさそうですが。
そして、相対的私。相対的とは他との関係において成り立つ様。
相対的私、とはいたいけな僕の中の相対的な私。ということです。
周りと比べた時に自分が自分であることが分かること、アイデンティティみたいなものです。でも、アイデンティティとも少し違う。相対的に考えた時のみ気づける自分の外側。
いたいけな僕を隠す、相対的に生まれた私。
人間みんな、意外とそんなものなのかもしれません。作られた私で僕を隠す。
だからこそ、僕を見せられる相手は大切なんでしょう。
男女とか、政治とかそういうことを偉そうに考えててもみんな幼気な僕を隠してるんでしょう。そう考えると、許せなかったこともどうでも良くなってきやしませんか。
いや、ならない。
面倒なものは面倒だし、許せないことは許せない。
楽しいことは楽しいし嬉しいことは嬉しい。
これは好き、これは嫌い。
こんなものの考え方でいいんじゃないでしょうか。
いたいけな心も、さらけ出して生きられたらなぁ。

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