舞台から降りる

今日からできるだけ(毎日とは言わない)、簡単でいいから何かしらの日記をつけていこうと思った。

というのも、毎日毎日仕事をして、ご飯を食べて、本を読んで映画やドラマ、アニメを見て、笑ったり泣いたりイラついたり、そんなふうにして生きているはずなのに、振り返ってみればいったい何をしていたのか思い出せないからだ。

特に9月10月に至っては驚愕だ。知らぬ間に60日もの日々が溶けていた。

いよいよ怖くなってきたことと、たまに写真を見返してあぁこの日はこんなことしてたんだと思い出すのが楽しいことから、こうして日記をつけてみようと思った次第である。

さて早速だが最近は、大学生の頃に教養やら知識やらのためとかいう軽薄な理由で買ったものの、ほぼ手付かずで眠らせていた文豪たちの本を読んでいた。

まずは当時、慣れない古い文体に疲れてついぞ読み切らずに投げ出してしまった舞姫。

何を生き急いでいたのか手っ取り早く名作を知っておきたいと思っていた当時の私にとって、注釈を見つつ時間をかけてこの古い美しい文章を読むのはじれったかったのだろう。

読書感想文は苦手なので読んだ感想には触れずにおくが、ひとつ、舞姫と共に収録されていた『妄想』の中に強烈に印象に残っている部分がある。

生まれてから今日まで、自分は何をしているか。終始何かに策うたれ駆られているように学問ということに齷齪している。

しかし自分のしている事は、役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何者かが存在していなくてはならないように感ぜられる。

赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、ちょっと舞台から降りて、静かに自分というものを考えてみたい、背後の何者かの面目を覗いてみたいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。

新卒生の頃に私の感じていたこととそっくりだ。

名刺交換の作法とか、まだ大して関わったことのない相手に送る「お世話になっております」とか、コミットfixfyiみたいな横文字とかが、(あくまで私には、と断りを入れておくが)すべてサラリーマンごっこのように感じられたあの頃。

働いている時間だけ、自分の人生から切り離された別物のような、私の人生にはカウントされていない時間のような気がしていた。

仕事が終わって会社を出ると、朝から止まっていた自分の人生が再び動き出すような気がしていた。

なぜそう感じていたのかはわからない。

本当の自分を偽って周りに合わせて過ごしていたから?
自分が思っていたような社会人になれてなかったから?
自分のしたいように仕事ができてなかったから?

どれも当たっているようで何かが違う。

午前の個別面談で退職が決まった日、お昼に入ったラーメン屋でよっぽどビールを頼もうか悩んだことは今でも忘れられない。

そうして私はその後別の会社でしばらく働いたのち、今は会社に属さず仕事をしている。

もう久しく、引用した部分のような気持ちに駆られてはいない。

このままでいいのか、何か新しいことを始めたほうがいいのではないかなどの悩みはあるけれど、私は今の生活が幸せだと感じる。

これまでも薄々感じていたことだが、多分私は世間一般で言う「普通」とは距離を置き、「普通」を意識せず生きていくしかない人間なのだと、何だか最近悟りにも諦めにも似た感情で思う。
(決して「普通」を皮肉って言っているのではないことはご理解いただきたい。)

まあこの話はまた別の日の日記に書こうと思う。

2021.11.12投稿

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