ゆとり世代の解答用紙
中学2年生の頃、学校での三者面談で先生に「珠子さんのテストの解答用紙からはハングリー精神が感じられない」と言われたことがある。
1点でも多くとろうという気持ちが感じられる解答用紙ではない、と。
断っておくが別に私は、わからない問題を初めから諦めて空白にしたまま提出するとか、おふざけに走って明らかに適当な解答を書き込むとか、そんなことをしていたわけではない。
わからない問題でもきちんと考えて、それらしいことを書くようにしていたし、あわよくば部分点だけでも…という気持ちで回答欄を埋めることだってもちろんあった。
だけど、先生にはハングリー精神が感じられなかったらしい。あまりに淡々とした解答用紙に見えると。
さてさて一体どうしたものか…。
考えた末、当時15歳の私は次のテストで、最後の方の問題の解答は走り書きで汚く書くこと、消しゴムを使うときはあえて綺麗に消し切らないことで、ハングリー精神を表現してみせた。
こうすれば、必死で解いた感、終了時間間際まで試行錯誤を繰り返した感が出るのではないか。
当時の私はそう考えたのである。
だがしかし、これに何の意味があるというのだろう。
確かに「ハングリー精神があるっぽい解答用紙」にはなったかもしれないが、テストを解いているときの私の精神状態は何一つ変わっていない。
むしろ、不自然に見えない走り書きをしたり(走り書きというのは案外わざとするのが難しい)、文字の消し残し具合をちょうどいい塩梅に調節したりと余計な手間・神経を使うことで、テストそのものに対する意識は薄れたくらいだ。
というわけで、その次のテストから私はまた、先生の言う「ハングリー精神の感じられない解答用紙」に戻った。
先生も、まるで私に言ったことを忘れたかのように、その後何も言ってくることがなかった。
それから早10年。
特に自分にハングリー精神がないと感じることなく生きてきたが、ここ数日、いやいや自分は本当にハングリー精神がないんだなと実感し始めた。
何かを始めても続かない。
無我夢中でハマれるものがない。
何かを頑張ろうと思っても、「それをして何になるんだろう」と冷めた目をしている自分がいる。
これって全部、自分や自分の生活を変えたいとか、楽しく生きたいとかいうハングリー精神がないからなのではあるまいか。
良くも悪くも、別に今のままでもいいし〜なんていう、ぬるま湯で伸び切った自分がいるからではあるまいか。
今までハングリー精神だの成長だの向上心だのという暑苦しい精神論にはかなりアレルギー反応を起こすタイプだったが、流石にこのままぬるま湯に浸かっていは、ふやけてシワッシワのふにゃっふにゃになってしまう。
別にシワッシワになろうがふにゃっふにゃになろうがぶっちゃけどうでもいいのだが、大した苦労や困難もない代わりにこれと言った起伏も彩りもない人生になっていくのかと思ったら、とても怖くなった。
だから今年は、もう少しハングリー精神を持つ、というか、ひとつひとつのことに真剣に向き合うこと、これを1年のテーマにしたいと今更ながら決めた。
これをして何になる?とか、労力に見合ったリターンはあるか?とか、そんなことを考えるのはひとまずやめる。
後先考えず、ただ目の前のことに打ち込む。打ち込むことそれ自体が今の自分には大切だ。
気づけば20代ももうあと約4年。
特にここ2〜3年はいかにもゆとりらしい生き方を謳歌してきたのだから、ここから4年はもう少し、能動的な姿勢で暮らしてみたいと思う。
そういうわけで、今日はちょっも真面目なお話をしてみたのでした。
2021.2.9投稿
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?