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20210222 日記53

休み。セーラームーン後編を観に行って、祖父の病院へ行き、うどんを食べ、温泉に行き、帰ってきたら眠ってしまった……。

日記を書かずに眠ってしまい、翌日に薄い内容で日記を書くのが連続してしまったのは良くないですね。

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あと、3月1日に健康診断なので忘れずに覚えておきましょう。なにうどんに小天重つけてんだ(美味しかった)

セーラームーンEternal後編

前回の続きです。

これは、懐古主義と見せかけて逆の感情で、もろもろ事情があって、最新作の方が現代の感性に追いついてないように感じる珍しい例だった。

旧アニメのセーラームーンSuperSは、幾原邦彦監督が携わった最後のシリーズでもある。

「夢」や「未来」がテーマとして流れているのは共通しているのだけど、セーラームーンSuperSは、セーラー戦士たちはもちろん、敵であるデッドムーンサーカス側のキャラクターたちも、自分たちの心の中にある夢を見つけ、それぞれが選んだ未来へ歩みを進めていく。

また、SuperSは、ラスボスであるネヘレニアをセーラームーンたちが浄化したり、倒したりしないシリーズでもあった。(スターズ序盤で浄化されるのだけど、私はこのスターズ序盤がアニメシリーズで唯一納得できておらず、ハッキリと蛇足だと思っている)

ネヘレニアは「永遠の美しさ」を手にするために、自分以外、誰もいない鏡の世界に還っていく。

永遠の美しさを得る代償として、永遠の孤独へと向かおうとするネヘレニアのことを、セーラームーンは「かわいそうな人」とは言うけれど、セーラーちびムーンを救うため、ネヘレニアに手をかけることなく、自分たちの日常がある地上に帰っていく。

ネヘレニアも、これ以上、セーラー戦士たちや地球に手をかけることなく、永遠の美しさを手にするため、天上に登っていく。

現代に生きる1人の女の子としての生活と、セーラー戦士たちの使命を常に等価として描き続けてきた(1人の女の子としての選択のために、セーラー戦士たちの活動をあきらめることを、寂しく思いながら肯定的に捉えるエピソードがいくつもある)アニメシリーズだからこそ、「夢」や「未来」をテーマとして描くにあたって、例え思想が相容れなかったとしても、敵キャラがその選択に至った理由や意志に対しても、同様に尊重する描き方をしていたのがSuperSだったように思う。

対して、今回のセーラームーンEternalは、かなり原作に忠実な再アニメ化だったのだけど、だからこそ「前世からの宿命」「己の出自」が、個人の選択よりも上のものとして描かれているように感じたのが、仕方がないけど、少し時代にそぐわんかな〜という感じがした。

あと、これも仕方ないのだけど、前後編分けたことで、後編は9割方暗い画と難しい単語ラッシュになってしまったのも映画としてあまり良くなかった気もしている。

ミュージカルは、同じく原作の物語を踏襲しながら、アマゾネスカルテットをカットしてたり、そもそもミュージカルという表現技法自体の強みもあって、見せるべき主題に絞って描けていたようにも思うので、同様の展開でも個人的にはミュージカルとSuperSがオススメかな……とは思いました。

セーラー戦士たちの選択への違和感は前編からあったもので、それがより気になってしまったのは、後編だけ観た時の画と物語的なしんどさと、ネヘレニア様が『孤独』でいることさえも許容されない世界のように感じたという2点が大きかったように思う。

最初の外部太陽系戦士4人の生活のところはめちゃくちゃ良かった。

もし観るなら、ちょっと長くなっても前後編まとめて観ることをオススメします。

今日の一ツイ

ウマ娘、楽しみウマね……

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