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20210531 日記151

休み。

日記を書いたり、各種配信や番組を観るために後回しにしていた仕事をしたりしていたら夕方になっていたので、カレーを食べに行く。

皆さんの家のご近所にも高確率であるだろう、外国の方が経営しているインド料理店に入ってみた。2店舗あるのだけど、入ったことの無かった方。

ナンがデカく、ライスもついていたので大満足のボリュームだった。カレーも美味しかったです。ナンからしか摂取できない栄養素ある。

明日のたりないふたり

18時半からはこれを観ていた。

内容については言及しないようにというお達しがあるので触れないけど、出来ないな……という思いもある。

あそこにあった感覚の全てが、たりないまま生きてきた二人と、それをたりないまま眺めている俺自身の、生き様そのものだったと思う。

何というか、改めて漫才であり、チームで作る命がけの一つのステージの凄まじさみたいなものを痛感させられた1時間半だったように思う。

配信をあそこでフェードアウトさせたのがあまりにも完璧で、即興だったと思うし、名残惜しむように話している姿を見せたかったと思うのだけど、あれで後は俺たちの番だという気持ちにさせられたな…………と思った。

この日記の先が今回の『明日のたりないふたり』で、ここ1ヶ月くらい、今回の漫才に全てを出しきるために苦悩しながら生きてきた若林さんを目にしていたので、配信終了前に話した一言が本当にカッコよかった。

2019年の初頭くらいからオードリーのラジオを聴き始めるようになり、若林さんのエッセイを読むようになったのだけど、この2年間で俺という人間の人生は少しだけ良くなったと思う。

その変わろうという一番大きな勇気をくれたのが、若林さんが自分が「たりない」と考え続けていることを話したり、書いたりし続けて、悩み続ける日々の中で、自分のたりなさを確かめながら、それでも少しずつ前に進んでいく姿を見せてくれたからだと思っている。

今日の『明日のたりないふたり』で、山里さんの圧倒的なワードセンスと、そこに敵わないと思いながら、自分だけの武器で根っこからの言葉を引きずり出す若林さんをみて、もう本当に救われてしまったなと感じた。

あくまでも漫才のステージなので、あまり感傷的な言葉ばかり書きたくないのだけど、紛れもなく青春だったなというのが、一番最初に浮かんだ感想だった。

若林さんは会ったら死ぬほど動揺してしまうけど、人生のどこかで、絶対に直接感謝の言葉を伝えなくてはいけない1人になってしまった。

44歳と42歳のおじさんが、お互いの本心をぶつけながら、河原で殴りあうみたいな漫才を1時間以上やって、この歳になっても、こんな風に泥臭く生きていられるなら、俺も『たりない』と思いながらも、この先の人生を、少しずつでも前に進みながら生きていたいという希望をもらった。

明日からアーカイブ配信が始まるので、改めて観ようと思います。

今日の一ツイ

久しぶりにヨシダさんとビールを飲んだ。

お互いの近況報告も含めて、いろいろ喋っていたら4時間が経過していました……。

自分に自信が無いので、他人からの評価を適切に受け取れないという最近のセンテンスに付随して、俺が基本的に誰かから嫌われるのが怖い八方美人であるということが有機的に絡み合い、近いうちに問題が起こらないか心配しているというご指摘を頂き、めちゃくちゃなるほど…………と思わされるものがあった。

己の身の振り方と、自分の現状に対する適切な把握というのは、やはり自分自身ではなかなか難しいのだけど、信頼している人と話す中で、少なくともその人には俺がそういう風に見えているというのが分かると、現状を見つめ直す一つの指標にはなり得ると改めて思ったし、外に出られなくて、人と話す機会が少なくなると、そういう話をする機会も減るので、気をつけなくてはなとも思う。

危惧されている問題が起きそうになった場合、ヨシダさんに一旦相談するということになったので、よろしくお願いします。

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