ショートショート 「鏡を見て、ニッコリと」

 鏡を見て、ニッコリと。これが僕の習慣。

 僕がこれをやり始めたのは3年位前。小学校5年生の頃。唯一の友達が親の都合で転校することになりました。それをきっかけにクラスで孤立するようになった僕は誰からも相手にされず、誰とも話すことの無い学校生活を送ることになりました。いじめられることは無かったけど、遊んでくれる人や一緒に帰ってくれる人は居ません。理想の学校生活とはかけ離れてた。それが虚しくなって学校に行くのをやめました。お母さんとお父さんは、それ以来僕に構うことが無くなりました。ご飯の時にリビングに行くと「部屋で食べなさい」と言われます。「友達が居なくなった位で情けない」とも言われました。ただ僕にとって、友達が居なくなって、ただ勉強をする為だけの場所と成り下がった学校に用事はありません。今の時代勉強なんてパソコンで十分出来ます。先生の授業なんかより分かりやすい解説付で。

 友達とは何度か電話をしましたが
「新しい友達が出来た」 「良かったね」
の会話が最後でした。その日以来、あっちから電話は来ないし、こっちから電話をしても何故か出てくれなくなりました。直接会わなくてもいいから、電話でいいから話をしたかったのにそれすら出来なくなってしまったのです。

 小学5年生にして“孤独”というものを味わいました。孤独というものは、大人になれば必要なスパイスとなるかもしれません。しかし、小学5年生の前では毒にしか成りようがありませんでした。僕の弱りきった心には毒が良く回りました。“心が壊れる”なんて表現がありますが、まさにその状態に陥っていたかも知れません。

 いつからか、部屋に置いてある姿鏡の前に頻繁に立つようになりました。コーディネートをするわけでも、髪型を直すわけでも、カッコいいポーズを決めるわけでもありません。

“ニッ”

表情筋を動かすだけ。棒立ちで。“ニッ”の状態で約2~3分位もう1人の自分を眺める。毎日同じ場所に現れるもう1人が、僕に笑顔を向けてくれる。何故か悲しげな笑顔ではあるけど、でもそれで十分だった。多分だけど、僕がもう1人に向ける笑顔も純白な笑顔ではなかったと思うから。お互い目を合わせて不完全な笑顔を見せ合う、それだけの関係でした。

 そして、もう1人と不完全な笑顔を見せる関係が始まって約3年が経ちました。もう1人は毎日笑顔をやっている筈なのに、まだ不完全な笑顔しか見せてくれません。むしろ、最初の頃より不完全さが増した気がします。「これは本当に笑顔なのか?」と疑問を抱く程に。そして、多分僕も。もう1人の笑顔の不完全さが増すごとに、僕も笑顔を見せるのが難しくなっていました。笑顔という物は、毎日継続していても上達しない物だと学びました。あの頃は笑顔は自然に出ていた筈なのに…

 そして昨日、僕は毎日会っていたもう1人と会うのを辞める決断をしました。正確に言えば、“暫く”会うのを辞める決断。また1人ぼっちの時間を過ごすことになるけど、もう1人に完全な笑顔を見せるための決断。僕たちは、会ったその日から毎日不完全な笑顔を見せ合っていました。本当の笑顔が良く分からなくなるほど不完全な笑顔を。それならばいっそ、1回会うのをやめて、あの不完全な笑顔を忘れてしまえば純白な笑顔を取り戻せるんじゃないかって。僕が純白な笑顔を取り戻せば、もう1人も同じ様に返してくれるんじゃないかって。毎日不完全な笑顔を見せ合っているのは、痛みの救済の為だと思っていたけど、そうじゃなかったみたいです。結果として2人とも笑顔を把握出来なくなりました。

 約2年間、毎日もう1人が現れていた姿鏡には昨日から毛布が掛けられています。毛布が1枚少なくなったベッドに座る僕は

“ニッ”

柔らかい壁の向こうに居るもう1人に向かって、恐らく不完全な笑顔を見せていました。壁越しなので、もう1人に会うことは出来ないけど、もう1人も壁越しに、僕と同じような無理のある笑顔を見せてくれていると思います。

 ただ、やっぱり“思います”じゃ安心出来なくて、不完全でもいいから笑顔を見たいと思ってしまうのは僕の弱さでしょうか?だって、もう1人が居なきゃ、僕に笑顔を見せてくれる人が居なくなる。僕が居なきゃ、もう1人に笑顔を見せる人が居なくなる。可哀想じゃん…

 ほぼ無自覚に動き出した身体は、自ら製した壁に手をかけていました。そして“ばっ”と引き剥がされた壁は…

「あっ!」

自分の小さい叫声とほぼ同時に聞こえて来たのは“カシャン”という、もう1人の居場所が消失した音。

「あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ!!!」

修復不可能なほど細かく、少しだけ危険な破片と化して床に散りばめられたもう1人の居場所。咄嗟にいつもの場所へ立て直しても、そこにはもう1人の居場所はありません。あるのは、恐らく人間の居場所にはなり得ない茶色の木の板。

「あ、あ、あ、」

破片の集合体に顔を近づけても、そこにあるのは、もう1人の顔のほんの一部分。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」

叫声の振動で僅かに舞った破片は、未だにもう1人の笑顔を探している僕の右目に飛び込んで来ました。

「う゛っ…」

眼球を直接攻撃してくる破片は、もう1人の身体のどこの部分なのか、全く見当もつきません。

「イタッ…」

うっかり床に手をついてしまった僕は、もう1人の破片で左手のひらを切りました。急に攻撃的になったもう1人は、返り血を浴びていました。身体のどこで攻撃し、どこに血を浴びたのかは分かりません。

 こうなってしまうと、つい最近まで一緒に笑い合っていたことも信じられなくなります。友情は一瞬で壊れるらしいですが、本当にそうでした。きっかけは転校だったり、鏡を割ってしまったことだったり…。薄い鏡の様な友情を、偽物の笑顔で結ぼうなんて無理な話だったとようやく気づきました。

“ニッ”

 木の板に向かって、恐らく“笑顔”という名に相応しくない笑顔を見せるも、もう1人の居場所はそこではありません。

「クソっ!…」

木の板を叩くと、かつてもう1人が居たその奥には、痛々しい血の跡が残りました。木の茶色のせいで少し赤黒く映ったその色は、鮮明に記憶されたもう1人の偽物の笑顔に良く似合う色で、それと同じ様に自分にも…。


ズルルルル ズルルルル ズルルルル

 昨日から部屋の前に置いてあったカップラーメンをすすりながら、もう1人を眺めていました。1年前とは比べ物にならない程大きくなっています。もう1人のお陰で出来たもう1人。一生消えることのないもう1人。1年前にバラバラになったもう1人は、かつての居場所の横で小さなどす黒い塊となっています。そして、傷だらけの僕の手のひら。初めて傷を付けられた時は全く気づかなかった。一緒に笑い合ったのにどうして…なんて思っていたけど、もう1度笑い合う為だった。すごく痛かったけど頑張った。だって、また笑い合いたかったから。僕の血汐で創ったもう1人。命を削って、命を創る。同じ高さのところに頭があって、眉毛も、目も、鼻も、耳も、口も、ほくろも、ニキビや生まれつきある痣も全部同じ。完成した時は、多分本物の笑顔が出せた気がした。

「ふぅー」

 カップラーメンを食べ終えた僕は、もう1人の前に立ちました。そして

“ニッ”

腐った様な色で笑うもう1人。

「また塗りつぶさなきゃ…」

 もう1人は、前みたいにバラバラに散ることはないけれど、すぐに腐った死体の様な色になる。その度に上から塗りつぶさないといけない。ただ、いつも使ってる僕の両手のひらはボロボロ。常に痛みに耐えるこの手を、赤黒くて、小さいけど鋭い塊に飛び込ませる勇気はありません。部屋の隅っこに昔使っていた絵の具があるけど、でもそれじゃあもう1人が可哀想です。僕はもう1人に偽物の笑顔しか与えることが出来ませんでした。だから、身体くらいは僕の本物の赤で。色濃く。
 
「ふぅー。う゛っ゛…ん゛ん゛…くっ」

 深呼吸をして、一思いに。こんなに痛いとは思いませんでした。深く噛みきった下唇からは、もう1人を作るための血汐が溢れ出ています。それを両手で受け止め、もう1人の頭を。そして、もう1人の首もとにキスするように唇を這わせる。ただ、下唇だけじゃ…

「ん゛ん゛っ…くっ…んはぁ…はぁ…」

両唇を赤く濡らし、両手にもう一度血汐を垂らす。頭から足元まで滞りなく。出血が多かったお陰でいつもより丁寧に塗れました。ただ、丁寧に塗っても、もう1人はどこか寂れた様な薄暗い色。前は塗りつぶせばすぐ生を感じさせる様な原色の赤に染まったはずなのに。
 自分の服を見ると、所々真っ赤に修飾されたTシャツ。何日も着ているせいで少しだけ黄ばんでいるけれど、それを見事に修飾する僕の色。本当だったら、もう1人もこの色に染まるべきなのに、闇を抱えた色になるのは僕のせいでしょうか?

「んっん…くっ…」

 まだ出血の止まらない唇でもう1人の闇を取り除こうとしても、もう1人は一定の闇を帯びたまま本来の姿を現しません。

“ニッ”

無理矢理作った笑顔を見せても、口角すら上げてくれなくなりました。

 肩で息をしながら軽い目眩に耐え

ガラガラガラ…

ロープや剃刀、薬の空き瓶が大量に入った机の引き出しの2段目。あまりにも「若気の至り」が過ぎる2段目。その中から直刃剃刀を。1度だけ首筋に当てただけの直刃剃刀。リベンジじゃないけど、もう1度だけ。あの時は見せびらかしたいだけの傷を、今は一時だけもう1人を蘇らせるために。

「うぅっ…」

今からする事を考えただけで身震いがする。手のひらを傷つけたり、唇を噛みきったりするのとは訳が違う。

「はっ…はぁはぁ…んはぁ…」

首に当てた瞬間、震えは一気に強まりました。ギャグ漫画でしか見たことのない震え方をしていたと思います。
 1度はここまでやってみました。ただ、この先は勇気が無かった。勇気というか「死んでもいい」という覚悟が無かった。見せびらかしたいだけの傷を付けようとするような奴にそんな覚悟は無いでしょう。自分で自分の首を掻っ切るなんて、どこか正常でない部分がないと出来るわけがない。そう考えると僕はこの時点で既に死んでいたのかも知れません。

“ニッ”

「あっ…あぅ…あっ、あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 もう1人を見つめ、ニッコリと。当然、笑顔はすぐに保てなくなりました。首からは見たことのない量の血が溢れ出ています。僕は、あふれた命を手と顔に塗りたくりました。

「あ゛あ゛あ゛!!!んっ、んっ、んはっ、んあっ、あ゛あ゛あ゛!!!」

 中身スカスカのB級ホラーに出てくる狂人。溢れ出た命をもう1人に移し代えていました。手で、頬で、鼻で、唇で激しく愛撫しながら。もう1人は、本来の色を取り戻しつつありました。

「あっ…アハッ…」
 
 2人で生温い熱を帯びる。

 いつの間にかもう1人と同じ色に染まった僕は、ついさっきまで鮮明に感じていた痛みを認識することが出来なくなっていました。命の状態としては異常事態かも知れないけれど、僕らの命を確認し合う儀式を行うには都合が良かった。

「これで、最後かもね…」

“ニッ”

 笑ったつもりではあったけど、本当に笑えたかは良く分からない。もう1人の顔は霧がかかったかの様に良く見えなかった。

 儀式を終えた僕は、もう1人に覆い被さる様に倒れ込みました。最後の力を振り絞り、もう一度

“ニッ”

 ぼやけた視界の中、この目に映ったのは、赤い四角。

「あっ…?」

 もう1人の居場所は木の板。その木の板全体が赤い。もう1人の陰はこの目には写らなかった。

「あ゛あ゛あ゛!!!」

理由は単純明快だった。もう1人の居場所である木の板を全面血で染めてしまったからだ。首から流れ出る血が元凶だった。良く見ればうっすらともう1人の陰を確認出来るが、この霞目がその陰を消し去っていた。

「あ゛っ…あ゛っ…」

ブゥーッ ブゥーッ ブゥーッ…

 蚊の鳴くようなうめき声を掻き消した、着信を知らせるバイブレーション。久しく触っていなかったスマホが命を吹き返した様に思えた。

本郷 武瑠(ほんごう たける)

液晶にはかつての親友の名が表示されていたが、当然それに気づくことは無かった。

ブゥーッ ブゥーッ ブゥーッ…

「う゛っ…あ゛…」

 「1人で死にたくない」そんな願いが力の抜けた腕を動かした。かつて鏡だったとは到底思えない程赤黒く染まったバラバラのもう1人に手を伸ばす。あの時バラバラになったのは、この瞬間の為だったのだろう。

「あ゛がっ…ぐっ…う゛っ…」

 バラバラのもう1人の一部を手に取り、一思いに口へ運ぶ。

ブゥーッ ブゥーッ ブゥーッ…

「はっ…はっ…」

 「これで、1人じゃない」という安心から笑みが溢れた。

 本郷武瑠によって鳴らされたバイブレーションは、いつの間にか聞こえなくなっていました。

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