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声が紡ぎだす あなたに伝えたいSTORY_04

story_04_棲家を探して転々と

中嶋:えーっと、池見酉次郎4)さんですか?
向野:1963年、九州大学(以下、九大)に心療内科が日本で初めてできるんですよ。池見先生はその初代教授です。
心療内科っていうのは、心の持ちようで病気になってしまうというところに注目した医学で、それまであまり手がけられていない領域でした。それを日本で初めて九大が講座にしたんです。
その池見先生の考え方の中に、元々の心療内科の発想というのは「東洋の発想から生まれたものだ」ということがあって、そうおっしゃったものですから。
中嶋:心療内科の発想が?
向野:「禅の思想」とかそういったことがベースになっていると。
それで、そうであるなら“昔の人がずっとその思想のもとに培ってきた方法論”を使うのが一番いいんじゃないかというふうに考えたんです。
そうしたら心療内科には、私の考え方を受け入れてくれる素地があるだろうと。
もう一つは皮膚科です。
当時、東京の方の大学の先生が講義にお見えになりましてね。皮膚から内臓の病変を推測するという講義をなさったんですね。
それで、心療内科か皮膚科のどちらかかなぁ・・・というふうに思ったんですけど・・・だけど、心療内科の実習の時に僕が生意気なことを言いまして(苦笑)。
その・・・「心療内科の発想が東洋であるなら、なんで昔からやられている東洋の方法論を使わないのか」というようなことを、ある心療内科の講師の先生のところかゼミみたいなところで発言してしまったんですね。
中嶋:はい。
向野:そうしたら、その先生が「生意気だ」とカンカンになって怒こりまして・・・。
それで、「あ~これはやっぱりここでは生きていけないなぁ」と。(苦笑)
それと、皮膚科はまだどうしても“皮膚だけをやる”というのは、なかなかイメージとして湧かなかったものですから。
だから大学を飛び出して、どこに”自分の棲家”があるかということで探したんです。
中嶋:ええ。

4)池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう)
1915年6月12日ー1999年6月25日
日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。福岡県生まれ。
九州帝国大学医学部卒業。戦後、アメリカの医学が日本に流入した際に心身医学の存在を知る。1952年メイヨー・クリニックに留学。帰国後、1960年に日本心身医学会を設立、初代理事長。1961年九州大学に国内最初に設立された精神身体医学研究施設(現在の心療内科)教授に就任、内科疾患を中心に、心と体の相関関係に注目した診療方法を体系化、実用化に尽力した。
著書「心療内科」「自己分析-心身医学からみた人間形成」「セルフコントロールの医学」等。 Wikipediaより引用

向野:それから放浪の旅じゃないけど、放浪するわけです(笑)。いろんな場所を。
それで、2年間は街の中の診療所みたいなとこでやっている先生の元で勉強しました。
だけどそれでは満たされなくて。
それで、「今度は基礎と臨床もやれるような所に行きなさい!もうここだったらやれるから行け!」と紹介されて三重県まで行きました。
そこは九大の先輩にあたる先生がいらしたので、まあそこに行って9年間働きましたね。
中嶋:ふーん。
まぁそこも医療現場で、かつ鍼灸の実地といますか・・・
向野:いやない。鍼灸は全然ない。
とにかく、まずは西洋医学のベースを身につけて、それから展開しても遅くはないと思って。
中嶋:その時というのは、大学を飛び出した時も医師免許を取られてインターンとしてさらに研究をするために所属しようとしたところが、“カッチンコ”して出て行って、そこから医者としていろんなところを転々としながら?
向野:いや転々はしてないですけど、九大には残らずに戸畑の診療所に行って、そこから三重県に行ったということ。
中嶋:なるほどですね。その三重県に9年間。

次回につづく・・・


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