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本になりました。

noteのみなさま、お久しぶりです。タサヤマです。

前回、「創価学会と会社」というエッセイを投稿してからおよそ2年が経ちました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。わたしは何も変わりません。

じつは前回の投稿がきっかけで、ディスカヴァー・トゥエンティワンという出版社より本を出すことになりました。タイトルは『内側から見る 創価学会と公明党』。お値段は税込み1,080円。推薦帯は宗教社会学者の島薗進先生にご執筆いただきました。発売日は12月14日なので、おそらくもう書店さんの店頭には並んでいるかと思います。

今回はせっかくnoteから書籍化したということで、版元さまの許可のもと、拙著の「はじめに」をnoteで公開することにしました。はじめての著作、しかもほぼ書下ろしということで、様々読みづらいところもあるかと思いますが、拙著を店頭でお見かけした際は、お手にとったり、レジに持っていったり、お近くの書店員の方に「これいまネットで超話題みたいですよ」とお声かけしつつご購入等していただければ、書き手としては大変うれしいです。

それでは「はじめに」の導入部がながくなってもしょうがないのでこのへんで。どうぞご贔屓に。

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はじめに―創価学会、内から見るか? 外から見るか?

創価学会をめぐる議論は称賛か罵倒かに引きさかれている

 はじめにカミングアウトするが、私は創価学会員である。出身大学は創価大学だし、出身高校は関西創価学園だ。べつにゲイを論じる人間がゲイである必要はないし、暴走族の研究者が元ヤンである必要もない。ただ、私は創価学会員である。生まれた時からずっと。たぶんこれからもそうだ。

 本書のもととなったエッセイを、デジタルコンテンツのプラットフォームサービスであるnoteに投稿したのは、2015年の7月上旬のこと。当時は集団的自衛権の限定的容認を含んだ安全保障関連法案が衆院特別委員会で可決される直前にあたり、どことなく物々しい雰囲気に包まれていたことをいまでも覚えている。

 中心的に法案の作成を進めていた安倍首相および自民党が左派陣営から厳しい批判にさらされており、この法案は戦後日本の安全保障政策の一大転換点であることは明白で、そうした議論が巻き起こることはある意味当然でもあったわけだが、そのなかで私にとって重要だったのは、当時連立与党にあった公明党に関するものだった。いわく「平和の看板はどうした」「池田は平和主義者ではないのか」「なぜ創価学会員は反対しないのか」云々。

 先の法案が「戦争法案」だったのかどうかについて本書でとくに述べることはないが、これまで認められてこなかった集団的自衛権を一部であっても容認するということの衝撃は大きく、そうした法案に公明党が同意して政策を推し進めることは、支持母体である会の指導者である池田大作(*本書では敬称をつけない)の平和主義者としての過去の発言と矛盾するのではないかという批判には、お前らべつに池田のこと本当に平和主義者だとは信じてないだろうという疑念は抜きにしても、首肯せざるをえないものがある程度あったと思う。

 そうした情勢のなかで創価学会員の側がなにもしなかったわけではなく、「ひとりの学会員」というアカウント名で安保法案の白紙撤回を公明党に求める署名集めの活動をおこなったメンバーや、「学者の会」と歩調をあわせるかたちで安全保障関連法への反対の意思表明と署名集めをおこなった「創価大学・創価女子短期大学関係者有志の会」、また、連日国会前で開催されたデモに三色旗をもって参加した幾人かのメンバーなど、ふだん一枚岩と思われがちな創価学会のイメージとは異なるもの=「学会員の反逆」として、テレビや新聞などで取りあげられ、一部で話題を集めることとなった。

 と、まとめるとなにか創価学会にとっても2015年の夏が公明党支援の一大ターニングポイントになったかのような印象になるが、実際のところ組織活動の現場でなにか具体的な変化があったわけではほとんどない。

 知ってのとおり、その後も自民党と公明党の連立は解消されることはなく、初代会長の牧口常三郎を獄死に追いやった治安維持法とよく比較される共謀罪/テロ等準備罪はとどこおりなく成立し、2017年7月の東京都議選では候補者23名の全員当選を勝ちとった。同年10月の衆院選ではいくぶん議席を減らしたが、選挙への強い影響力をいまだ誇っているかのようにみえる。党・信濃町・現場の三者の努力があったことはもちろんだが、秘密保護法も集団的自衛権の容認も共謀罪/テロ等準備罪も、創価学会の公明党支援にとって決定的な障害となるものではなかったわけだ。

 こうした事態をうけて、なぜ創価学会は会の指導者である池田の指導とは異なるようにみえる政策を進める公明党の支援にここまで膨大なエネルギーを注ぐことができるのか、というテーマが社会的な問いとして浮かびあがることとなった。おりしも生長の家を源流とする政治団体である日本会議と政権中枢との関わりが取りざたされていることもあって、「日本政治と宗教」はホットなテーマとなっている。

 が、2017年現在、上記のテーマを考えようと本屋の書棚を探した人たちはおそらく同じような感想をもつのではないだろうか。創価学会と公明党をテーマにした書籍で、研究書とよべるクオリティのある本がほとんど見当たらないのだ。おそらくは玉野和志の『創価学会の研究』や西山茂『近現代日本の法華運動』など、ごく限られたものだけ。2016年になって中央公論新社や岩波書店といった硬派な出版社から政治ジャーナリストによる公明党についての書籍が出たことでいくぶん状況は改善したが、それらを除けば、第三文明社や潮出版社などの創価学会側の出版社の刊行した基本的に創価学会に好意的な書籍か、または脱会者等が執筆したきわめて批判的な暴露本しか手にとることができない。

 公称827万世帯、政権与党の一角を占める公明党の支持母体でもあるこの巨大組織をめぐる議論は現在、称賛と罵倒に引きさかれた状態になっている。


「創価学会と公明党」というテーマについて、社会と学会がともに語る足場をつくる

 創価学会をめぐる議論は内と外に引きさかれている。このことをとくに問題と思わない人々も多数いるかと思う。創価学会に批判的な側からすれば、カルト臭い教団の意見など参考にならないと考えるのが当然であろうし、創価学会の活動家からすれば、無理解な世間の批判など考慮するだけ無駄であろう。それぞれにそれなりの理由がある。

 ただ、この両者の見解には問題が多い。社会にとっては、政権与党に参画するまでに巨大な影響力をもつ集団の組織原理や内部事情がブラック・ボックスとなっていることは、端的にリスクだ。創価学会が国や地方への政治参加をやめることは短期的には考えづらく、すくなくとも今後しばらくは選挙を通じた影響力を発揮しつづけるだろう。なにかよくわからないものによって自分たちの政治が左右されているという感覚が強まることは、自分たちの意見が国に反映されているという感覚を弱め、結果として社会や民主主義への信頼性を低下させてしまう。これはよくないことだろう。

 また、議論が内と外で閉じていることは、創価学会にとっても問題がある。私たちには言論問題/言論出版妨害事件(以下、言論問題)という社会との軋轢をおこした歴史がある。この言論問題についての評価は様々あれど、かの破局にいたった要因のひとつに、社会とのコミュニケーションを疎かにし、自分たちの論理だけで組織運営を貫徹したことがあげられる(→詳細は第4章)。外部の情報をシャットダウンした状態で、似たような考え方をもっていた人々が話し合いを繰り返すと、もともともっていた考え方はより極端化する傾向にある。こうした現象を法哲学者のキャス・サンスティーンは集団極化と呼んでいる。要するに外部の意見を考慮しないことは、長期的にみて健全な組織運営にとってのリスクになるというわけだ。これもよくないことだろう。

 もちろんこの説明だけで両者が納得するとは思わない。とくに学会側にとっては、すでに外部の意見は考慮している、または最終的には考慮する必要などないという両極からの反論があることぐらい知っている。だが、私はそれでも本書において、社会と学会の双方が「創価学会と公明党というテーマ」をともに論じるための足場を構築することを目指す。社会の側には創価学会にまともな関心をもってもらえるよう求め、学会側にはまともな関心からの意見なら考慮に入れることもときには必要であることを求める。私はこの実践に人生をかける。もう決めている。


本書の目的と構成

 というわけで本書の目的は、創価学会が熱心に公明党の支援活動をおこなうことについて、学会と社会の双方が同意できるよう配慮しつつ、その内的論理を考察することとなる。メンバーにも同意してもらうことが前提となるため、退会者やロコツな批判者の証言はできるだけ資料として採用せず、学会側が刊行した書籍や研究者の論文などをおもな一次資料とする。つらい思いで会を辞めた人もいるかと思うが、理解してほしい。

 第1章は、冒頭で述べた2015年に書いたエッセイに加筆したもので、これまでの創価学会研究の総括をおこなっている。テーマは「なぜ創価学会は70年代以降、会員が増えなくなったのか」だ。このテーマを論じるにあたって本章で展開した「創価学会の発展の背景としての高度経済成長」というストーリー自体は研究史的にスタンダードなものといっていいが、日本戦後史や労働法制史、ソーシャル・キャピタル論など、これまでよりも広い文脈へとつなげることを試みた。

 ネットに公開したときは硬めの文書かと思ったが、筆者が創価学会員であることや、安保法制で騒がしい時期であったこともあって、SNSを中心に話題となり、思いのほか広く読まれることとなった。拡散していただいた方々に、この場を借りて感謝を伝えたい。

 第2章では、いきなり創価学会の選挙活動を論じる前に、その準備をおこなう。創価学会の公明党支援というテーマを論じることが難しい理由のひとつは、学会員の選挙活動が信仰心によるものであることについて、会も社会も承知しているにもかかわらず、おもてだっては双方ともにその点に触れないという奇妙な事情にある。

 池上彰の選挙特番などで信濃町の学会本部に突撃取材したシーンがテレビで放映されたときの「やりやがった感」は、この共犯関係がやぶられたことに由来するといっていいだろう。学会員は選挙活動の理由を「池田先生のためだ」とおもてだって語ることはあまりなく、だからこそ退会者や「とある幹部筋」などの話が「学会の内部事情」として世間に流通するわけだが、そうした出処不明の情報が会のメンバーに聞き入れられることはなく、またまともな資料として採用することもできない。創価学会と政治をめぐる議論は、こうして内と外に引きさかれたまま閉じたループをくり返すことになる。

 このような事情をふまえ、本章では、『聖教新聞』や『創価新報』などの学会公式メディアに掲載された情報だけを使って、創価学会の公明党支援のあり方を考察する。主にとりあげたのは、井上サトルの『バリバリ君』、まっと・ふくしまの『花の三丁目地区』、そして芝しってるの『あおぞら家族』の3作品。『聖教新聞』や『創価新報』を購読している人にはおなじみの、学会員の生活を描いたほのぼの日常マンガである。いってしまえば創価学会版『よつばと』のようなものだ(*ちがいます)。

 これら創価学会サブカルの分析を足がかりとして、事情通の暴露話などにたよらずに、会の公式刊行物を読むだけでも創価学会の選挙のあり方を考察することができることを示したい。

 第3章から最終章となる第5章までは、いよいよ創価学会の政治進出過程を考察する。ここからが本論だ。

 まず第3章では、第二代会長である戸田城聖の時代を論じる。当時の戸田が『聖教新聞』や『大白蓮華』などの機関紙誌で実際に語っていたことを跡づけることで、かつて創価学会には、自分たちの宗教的信念を貫徹すること(=広宣流布)がそのまま地方および国の議席を獲得すること(=国立戒壇の建立)と同義だった時代があったことを示す。それは現役学会員にとっても、小説『人間革命』に描かれた戸田とは異なる印象をもつことになると思う。

 第4章では、会長就任から言論問題が起きた1970年頃までを対象に、第三代会長である池田大作時代の政治参加を論じる。従来の研究では、信仰活動と選挙活動が一致していた戸田時代の政治参加のあり方が変化するきっかけを、1964年の衆院進出表明と70年の言論問題にみていた。世間からの政教一致批判に対処するために、当初の政治参加の目的(=国立戒壇論)を放棄したというストーリーだ。本書ではこれを修正し、1961年末の公明政治連盟の結成こそ会の運動に変化をもたらした契機であったと主張する。

 創価学会の政治参加には、政教分離原則に抵触しないという対外的な課題だけではなく、メンバーの政治的自由に配慮しつつ公明政治連盟、およびその後継団体である公明党という政治団体への投票に動員するという対内的な課題をクリアする必要があった。この後者の課題をクリアする過程で生みだされたいくつかの考え方や発言が、現在にまでつづく学会員の選挙に消えがたい影響を残すことになる。

 最終章となる第5章では、ここまでの議論の総仕上げとして、ポスト池田時代の政治参加を考察する。中心となるのは、松岡幹夫と佐藤優というふたりの人物である。

 与党となって以降の公明党を擁護する論陣は、彼らふたりに代表される。彼らの議論をまとめることで、池田の思想とは一見異なるようにみえる政策を進める党の支援活動を継続する、現在の公明党支援の論理に迫りたい。またこの作業は、選挙活動に賛同しない会員のことを組織がいかに捉えているかも合わせて明らかにすることになるだろう。そこに第4章で論じた言論問題以前の池田の発言の、現代的なかたちでの継承、または回帰がみられることを示したいと思う。

 以上、本書のあらましについて述べてきた。さきに第3章から第5章が本論であると書いたが、この議論は創価学会という団体の宗教思想にある程度ふみこんだ内容となる。宗教のディープな話が苦手な人、公明党にだけ興味がある人は、第3章と第4章を読みとばしてもらってもかまわない。第5章だけ読んでも話が通じるように書いたつもりだ。

 また、松岡や佐藤の議論が重要であるとは述べたが、彼らの著作を読んだところで公明党が今後どのような政策を行うかについては何ひとつわからない。公明党の行動は日本の政治の関数なので、党の政策決定については、日本政治の専門研究者、または政治ジャーナリストの著作を読んでもらうことが一番である。彼らの著作の考察を通じて本書が明らかにすること、それは「公明党が今後いかなる政策を行うか」ではなく、「公明党が行った政策をいかなる論理で創価学会が正当化するか」である。

 あと、ここまでの説明でも明らかなように、本書の議論の中心は、書かれた資料にあって、現場の会員へのインタビュー資料はあまり採用していない。また、会のリーダーたちが「なにを語ったか」や「なんと書いたか」には焦点をあてたが、リーダーたちの指導が会員たちによって「いかに聞かれたか」や「いかに読まれたか」については限定的にしかふれていない。創価学会という運動体の歴史は長く、あまり知られていないが、地域差や世代差、男女差などがかなりある。それら膨大で多様な言葉に向きあうのは本書のあと、もうすこし先の課題であると考える。

 かさねていうが、本書の目的は、創価学会と公明党というテーマについて、会員と社会がともに語るための足場をつくることにある。つまり創価学会という団体をめぐる議論の最終的な結論を出すことにはない。本書は創価学会をめぐる会話のゴールではなく、そのささやかな開始を告げるものにすぎない。読んでもらえるとうれしい。


浅山太一著『内側から見る 創価学会と公明党』(ディスカヴァー携書)


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