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過去についての覚え書き

体調がすこぶる悪い。今わたしにできることはYouTubeで無印良品でかかってそうな音楽を検索してスピーカーから流し続けることだけだ。
体調不良も2日目の終わりになってくると、なんだか必要以上に悲しかったり、苦しかったり、無力感を感じたりしてしまう。
つらい。
同じような体調不良が9週間前にもあった。その時にこう記していた。


過去についての覚書

8年前に負った傷を、傷と認識しないまま、ここまできてしまった。
その傷は昨日まで、わたしの足らなさによって起こってしまった欠損だった。

とても簡単にたとえるなら、わたしは8年前、交通事故に遭った。(例えだ)
そのことを長らく「わたしがあの時あの横断歩道に立っていたのが悪い」と自分に思い込ませたまま、ここまで来てしまった。
なぜなら、分かりやすく悪い人間に狙われて車にひかれたのではなかったこと。むこうに悪気がなかったこと。その時、傷口は、そうたいして大きいものだとは思えなかったこと。取り返しのつかないことだと、昨日まで1ミリも認知していなかったこと、が理由にあげれる。

交通事故に遭ってから、わたしはずーっと足を引きずって生きてきた。引きずった足の応急処置として、いろいろな人間との出会いがあった。たいてい同じように終わっていく人間関係を見つめながら、わたしはますます足を引きずるばかりだった。応急処置は、まったくもって応急処置にならなかった。
それどころか、交通事故、および、そのあとの人間関係の破綻は100%わたしのせいだと思い込んでいた。
わたしが悪い子だったから神さまがわたしに罰を与えたのだと。
もっと言えば、21年前に遡る傷もある。最初の傷だ。それを子供時代のなんでもないことだと処理したまま、ここまできたけれど、本当はなんでもないことなんかじゃなかった。
パパとママがどれだけ気をつけても、あたまのおかしい人間に娘が傷つけられてしまう。そのことを考えると、娘を持つことが怖くなる。
いつでもボロボロになるぐらい否定されて育ったので、パパとママだけは、どうか子供のことを全肯定してやってほしかった。親には見えない家庭の外で娘はボロボロだったのだ。

この文章の中にある「交通事故」や「21年前にさかのぼる傷」が、何のことなのか、わたしはもうわからない。おそらくそれはしあわせな10月のおかげだ。すばらしい経験をした。あのしあわせの感覚。体に刻みこまれた生きるよろこび。目を閉じるわたし。

あの時と同じようにわたしは目を閉じる。眠ることにする。睡眠は百薬の長だ。痛む体が良くなることを期待する。やすむことを当然だと思うようにする。あまり焦らないように。

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