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StayするHomeが無くとも歌う:3日目
今の家を「出ていく」可能性がある。まだ可能性の話である。この「出ていく」とは、明るい意味合いのものではなく、つまり、そういうことだ。
Stay HomeするHomeのある人と、そんな場所を持たない人がいる。さまざまな理由でHomeを持たない人にとって、ポップミュージシャンの歌う歌はどう響くのだろう。これは「響くわけねえだろ!」という反語ではなく、純粋な疑問である。今、わたしに、あの歌はどう聞こえているのだろう?
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1年半ほど前、コレド室町のTOHOシネマズで『イェルマ』という舞台を見た。みんな大好きナショナル・シアター・ライブによる上映だ。だから正しくは舞台を見たというより、舞台映像を見たと言ったほうがいいだろう。傑作だった。ただ、手放しで傑作とは言えない傑作だった。
『イェルマ』はスペインの劇作家・ロルカが100年近く前に書いた物語だ。子どもが欲しいがなかなか恵まれないイェルマが追い詰められ、夫や周囲の無理解も拍車をかけて、ついには狂ってしまう。
わたしが見たものはそれを現代版にアレンジしたもので、イェルマは原作の一介の主婦から、人気ブロガーという職業を持つようになっていた。
さて、この舞台の中で、イェルマはなんでもブログに書いてしまう。子どもに恵まれないことも、夫との営みも、すべて書いてしまう。なぜならそれが仕事だからだ。その行為を承認欲求なんて手垢のついた言葉でレッテル貼りしたくない。彼女はまじめなのだ。まじめにブロガーとして働いて、働いた結果、おかしくなってしまう。
ガラスケースが登場人物を囲うような舞台美術だった。イェルマは一度もそのガラスケースから出ることはなかった。まるで一匹のラットみたいに彼女は展示されていた。ほかのみんなと同じように、普通に生活していたのに、何でもないような小さなことにつまずいて、おかしくなって、見えないガラスケースに頭をぶつけて死んでしまうネズミ。
物を書くことを生業にしたいと思っている女がぶつかる壁の一つに「どこまで自分のプライベートを切り売りするか」というものがあると思っている。『イェルマ』を見てから余計にそう思うようになった。あの狂いゆく女の姿がいつも自分の網膜にある。
(いつか思い描いた理想の幸福が手に入る。その幸福は赤ん坊の形をしている。あれさえ手に入れば、わたしはきっとうまくいく。だけど、なんでなの?がんばればがんばるほど、どうして幸福は、この手をすり抜けていくの?)
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当時、このようなことを記していた。
「結婚するとか子供をつくるとかいうのは、わけがわからないままどたばたやっちゃうのがいいのかもしれないと思うこともあります。考えすぎちゃうとしんどいことってありますよね。」と村上春樹はエッセイで記している。
『イェルマ』は、マジでこうとしか思ってないだろう夫と、死ぬほど子供が欲しいヒロインのあいだの溝がどんどん生まれて、その深みに彼女が溺れていってしまう話なのですが、語られない彼女の欲望の根源は舞台美術のガラスケースのように、観客の過去を映し出すなと思いました。
なぜ彼女が追い詰められるのかが、すべて観客の過去に委ねられているのですが、こちらの記憶の引き出しを器用に開けてくるポイントを狙った演出が巧みだった。脚本は何を語り、何を語らず、そして俳優の肉体は何を語るべきなのかを、細かに計算して創っていた。
これらのことはすべて本心だ。本心の中から生まれた言葉だ。だけど、本心の本心、本当のところはこう思っていた。こうツイッターに記していた。
ナショナルシアターライヴプレミアで『イェルマ』を観たのですが、自分の話かと思ってしまうぐらいだった、これやりたい、創りたい、創ろう。
創りたい、だから創る。シンプルなかつての自分の欲求に、なんだか少し涙が出た。
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StayするHomeの無い人にあの歌がどのように響くかはわからない。けれど一つ言えるのは、StayするHomeの無い人にも、歌を歌う権利があるということだ。
それはどんな歌でもいい。どんな歌詞でもリズムでもいい。口からこぼれた言葉に節がついたらもう歌だ。
わたしはかねがね、芸術や文化というのは受け手として消化するよりも、創り手として生み出す方が何倍も癒しの効果があると思ってきた。これは自分が劇団活動を通して実感したことの一つだ。わたしは芸術に癒された。わたしが芸術を生み出すことで、癒された。
騙されたと思って歌を創ってみよう?と、今日は自分に呼び掛けた。わたしは歌う。わたしが歌いたいから歌う。すると次第に歌は形を変えて、物語になった。今、新しいメロディがストーリーとなって、わたしの中を駆け巡っている。
いつか思い描いた理想の幸福。イェルマがそれを追い求めたのも、手に入らなかったのも、実は彼女一人のせいではない。ロルカはそう描いていた。だからわたしの苦しみはわたしだけのものじゃない。世の中全体から湧き出てきたものだ。
いつかまた劇場で会う日まで、わたしは歌を歌い続ける。
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