人生は儚いと教えてもらったこと
こんばんは。クラちゃんです。
ブログをnoteに引越ししてしばらく経ちました。
わたしにとって長い5月が今日で終わります。今日で30年あまりの靴屋生活が終わりです。
ここでは話題にするつもりじゃなかった
9年近く靴のキャラクターブランドの会社にいて、そのうち商品企画デザイナーをしていたのは6年ちょいくらいでしょうか。
1990年代の話です。
新卒で入った会社でデザイン室に入る前に挫折して、2社目は中途採用で販売職だった私に声をかけてくれた女性の販売課長がおりました。
わたしを採用面接の時にとってくれた人でした。
私より10個ぐらい年上で平成の初頭にはまだイケイケだった『赤文字』雑誌の読者モデルもしていたという
#あ、J Jとかcancamみたいな雑誌ね
だけあって、美人で明るく元気があって声が大きくてかん高いタイプ。
きっと同い年だったら子供っぽいわたしはお友達にはなれなかっただろうけど、とても可愛がってくれました。
彼女は仕事はできる方ですが営業部長にはおそらく煙たがられてましたかね。
あっという間にいなくなりました
2年近く渋谷丸井にいて本社へ。彼女が引っ張ってくれました。マルイの地下のとんかつ屋に呼び出されて「やってみない?」と。
デザイナーは4人いて、とりあえず売れる商品をつくるのが仕事。
1番若くて、当時は渋谷で買い物&遊んでいたので自分の欲しいものやら流行りそうなものを作れば売れました。得意なのはスニーカーやカジュアルなマニッシュ。
その課長もちょうど営業部に配属になって、わたしは近くで仕事を見ていましたが当時は中小企業では珍しかった育休を取り(初かな?)後から考えればわかりますが、お子さんが小さい時は早退したりして、かなり風当たり強く会社では生きづらそうだったのを覚えてます。
わたしは彼女が大変だと思っていたけれど、まだ若くて見ているだけでした。
ある日彼女は辞めていったけど、のちに私も急に仕事がつまらなくなって辞めました。彼女が辞めた理由はわかりません。わたしが辞めたのは彼女とは関係なく。
後に私が遊び半分でガーリィラウンジで靴を売り始めた2001年の銀座の月光荘ギャラリーまで来て靴をオーダーしてくれました。
彼女もその時は元気で相変わらず甲高い声で世田谷にドッグカフェを開いたとかそんな話を聞きました。
でも
またいつか絶対に会えると思っていたら、ある日病気で亡くなったとの知らせが。駆けつけたのは彼女の葬儀で『またいつか』はありませんでした。10年くらい前の話です。
遊びから始まった、ガーリィラウンジで自分でセミオーダー靴の会社をやってすでに10年も経ってました。
今回突然に会社を閉める事になって彼女の事を思い出しました。
儚いなあと思いながら
私も子育てしながらそれから10年間やってきたけど思えば彼女の歳を越してしまいました。この儚さを忘れずにいなくてはいけないのに。
ただ目の前にあることをこなしながら、こだわりの1品というよりかは昔やっていたデザイナーのやり方で落とし所をいつも探しながら強引に駆け抜けてしまった感じ。あまりにやり方がポンコツでぼーっとしていたなあと。
「まあ、作家気取りでやっていたらこの数の仕事を捌くのは無理だって。」
と、もう1人の自分が慰めてくれてます。
同じことはもうしない
と、息巻いて20年前に会社を辞めたのに、結局は延長戦のようにここまで来てしまいました。
私以上にお客様が大切に履き、展示会を1度でもやってくれたショップさんが深い愛で販売してくれて、この何でもない靴を売る靴屋がやってこれました。
記憶力がどうかしてるわけではなく、昔の事もよく憶えておりますので、お礼を言い切れてない方も多く、たくさんの不義理もあったかと思います。申し訳ありません。
本当にお世話になりました。
なんかnoteに書く今日の私は皆さんを元気付けるような感じでは無いかもしれないけど。実はこの一年は柄でもなくインスタのライブで喋っていましたが、喋ると文章が書けないのです。言葉がぽろぽろと溢れてしまいます。
3度目の正直といいますか、違う道を歩くことができますかね。
取り留めなくなりました。
ではまたガーリィラウンジで
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