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舞台『脳内ポイズンベリー』初見感想

※このnoteは缶(@kannnn0805)さんと議論しながら書いたため、後ほど上がるであろう缶さんのnoteと共通する部分があります。


舞台『脳内ポイズンベリー』を初鑑賞してきました。

といっても、私の初現場は大阪公演なので在宅配信勢です。
オタクA「初見は現場まで取っておいた方がいいのでは?鮮度が大事」
オタクB「いや見れるなら出来るだけ早く見たいやろ、鮮度より量」
オタクC「配信の感想見てからアーカイブ買うか?」
という無意味な脳内会議を繰り広げている間にも、両手はすでにクレカ情報を入力しており、気づいた時には「ご利用ありがとうございました」で配信の恩恵をバッチリ受けれる状態となっていました。頭と身体を別々に動かせてしまうというクソミソ散財能力を持ったオタクにとって、往々にして脳内会議はあまり意味を成しません。始まる前から結果の決まっている建前会議です。

まあそんなことはさておき、舞台「脳内ポイズンベリー」とっても良かったです!!!
映画の方を開始10分程度で挫折していたこともあって(共感性羞恥に負けた)多少の不安を抱えながらの鑑賞となったんですが、怒涛のコミカル脳内会議についてくのに必死で、楽しさは感じれど恥ずかしさを感じている暇などは微塵もありませんでした。
不思議なもので、同じ作品であってもドラマや映画などの映像媒体だと恥ずかしくなるのに、舞台だと一切気にならないといったことが多々あるんですよね。
そこのところ、私は舞台→映画→ドラマの順で写実性やリアル思考が強くなっていくからだと考えています。

例えばファンタジーの場合、ドラマや映画だと映像技術などを駆使して"よりリアルな"世界観に近づけないとなんだか違和感を感じてしまうといったことがあるかと思うのですが、舞台演劇の場合なら人が動物を演じても最初からそういうものだと認識して見ることが出来ると思うのです。それは舞台と観客の間に暗黙の前提条件があるからです。
舞台演劇ではそこに存在しないはずのものや世界、実際とは異なる何かを演じるというある種の「嘘」を楽しむことを前提として、舞台と観客の関係が成り立っています。つまり舞台という枠組みの中だと、自分の中で許容出来る表現のラインが無意識に広がるわけです。
そういう視点で考えたときに、実際には見えないはずの脳内会議を描く脳内ポイズンベリーは凄く舞台向きな作品だなと感じました。
原作未読、映画挫折、まだ現地入れてない勢が一丁前に語れることなど何もないのですが、色々と感じたことはあるのでとりあえず初見の感想を綴りたいと思います(あくまでも個人の感想です)

1.好きだったところ

不安だったとは言いつつも、正直舞台を見る前から「脳内会議ってめちゃくちゃ舞台映えする設定だろうな」とは思ってました。思ってた通り、め~~~ちゃくちゃ舞台映えする設定でした最高か????
いちこ視点の現実サイドと脳内会議メンバー視点の空想サイドが舞台上で常にリンクしながら存在してくれているので、舞台空間として見た時の満足度が凄かったです。これは舞台ならではのアプローチだな〜〜と(※映画見れていないので本当に偉そうなことは言えません)
また感情を擬人化してキャラクター化するという設定ですので、役者の演技を生で体感出来る舞台という場は観客にとって生きている感情を実感しやすい空間だと思いますし、そういった要素を主体に持つキャラクターの魅力をより増強させることに繋がっていたのではないかと思います。
どの感情ちゃん達も余すところなくキャラ立ちしていたし、みんなかわいくて面白くてめ〜ちゃんこ凄い……(私はハトコと石橋の絡みがお気に入りです)

そして何が一番凄いって、ちょっと周りを見渡せばどこにでも転がっていそうな恋愛話を、彩りよく調理して看板メニューに仕立てあげているところ

正直、恋愛部分のストーリーに関してはめちゃくちゃ普通だと思うんですよね、脳内ポイズンベリー。厄介な男に引っかかって厄介な思考から抜け出せずにいるだけの普通の恋愛模様。なんなら少女漫画というよりエッセイだと言われた方がしっくりくる感じ。(といってもアラサー女子にとってあまりにもご都合良すぎる展開ではあるので、そこら辺が少女漫画要素なんでしょうね)
しかし、これでベースの恋愛まで突飛だとしっちゃかめっちゃかな味付けになるのは目に見えているので。恋愛が普通だからこそ脳内が映えるといいますか、よくある恋愛ものに少々突飛な要素を一個付け足すだけでこれだけの変わり種になるあたり、作品作りって面白いなあと思います(もっとなんかないんか)
あと、いちこ的にはそれぞれの感情達がぶつかりあって「あ〜うるさい!」って感じの様子でしたが、実際に普段脳内で野次を飛ばしているタイプの人間からすると、ああやって思考をキャラクター化するアイデアはなるほどと思いましたね。逆に脳内が整理整頓されていい気がするというか、ちょっとしたライフハックになるんじゃないかと。私も議長を任命した方がいいのかな。

また、ひとつ演出的なことで言うと水中でのコポコポ音。あの演出がとても良かったです。
作中で共存出来ない二人の関係性を魚とチューリップのオブジェに例えているところがも〜〜〜〜う死ぬほどすきなのですが(この作品で一番好きな部分です)、あの水中のコポコポ音は魚が優雅に泳いでいるときの音のようでありながら、人間が深い海の底に向かってゆっくりと溺れていっている時の音のようにも聞こえたんです。

コポコポ音がある部分は(聞き落としている可能性あり)
①冒頭 いちこの過去の失恋シーン
②中盤いちこが早乙女の感情に振り回されるシーン
③黒いいちこが出てきて早乙女と寝てしまうシーン
④石橋が消えるシーン
⑤早乙女が謝ってきてそれを受け入れてしまうシーン
⑥ラストにみんなで揃って深呼吸をするシーン

だったかと思います。
終盤になればなるほど頻度が増えることからしてどんどん息が出来なくなっていく様を表しているのが分かりましたし、これは私の気のせいかもしれませんがこのコポコポ音はいちこが無意識のうちに辛いと感じている時ほど多く、大きく聞こえるようになっていたような気がしました。
またラストではコポコポ音から水が跳ねる?ような音へと変わっていったので、息をすることが出来た魚を表現していると同時に涙が落ちる音のようにも聞かせているのかなと思いました。
恋に溺れるといいますが、いちこと早乙女の場合は溺れる恋だったのでしょう。
いちこからすると、早乙女の元カノに「ちゃんと息してる?」と聞かれるまでは息出来ているつもりだったんでしょうね。でも実際は生存できない陸の上で、チューリップに合わせるため無理して無理してもがいていたという。
その一連の部分を音として演出しているのが凄く刺さりました。

2.気になったところ

舞台そのものとしてはめちゃくちゃ楽しかったので、早く現場に入ってあの空気感を生で浴びたい。というか配信だと魅力が半減している気がするので一刻も早く現場に入りたい。
んですが、話の構成に関しては前半が良かっただけに後半にかけてちょこちょこ惜しいポイントを感じました。
※何度もすみませんが原作未読、映画挫折しているので舞台を見ただけでの言及になります。舞台化にともなう変更点や削られているエピソードなどについては分かりかねますので、今回の脚本ではなく原作そのものに対する言及になっている可能性があります。

・石橋が戻ってくるシーン

ここは個人的にもっと突っ込んでやってほしかったですね~~。
ポジティブがいなくなってネガティブ一直線になるという現実とのリンクが良かったからこそ、石橋を呼び戻す手段が他の脳内会議メンバー達の叫びというのはどうもしっくりきませんでした。
当たり前ですが脳内会議のメンバーっていちこの脳内に存在している感情そのものなわけじゃないですか。だからあくまでもいちこの気持ちを表すアイコン的な存在である必要があると思うんですが、この流れだと脳内会議メンバーそれぞれがまるで一人の人間として感情を持っているかのように見えてしまうんですよね。
それの何が悪いんだよ!と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、私としては「みんなが帰ってきてほしいと願ったからポジティブが帰ってくる」というご都合展開は、わざわざ感情をテーマにしたお話でやることではないと思ってしまいました。
たとえば、落ち込んだ人がどういう時にポジティブを取り戻せるかについて考えてみます。
美味しいものを食べる、好きな音楽を聞く、趣味に没頭する、運動でリフレッシュする、とにかく寝る、深呼吸をする……などまあこんなもんは人それぞれなのでなんでもいいんですが、つまり何が言いたいかというと人がポジティブを呼び戻すにはその前段階に何かしらの行動があるんじゃないかと思うんですね。

劇中では、
いちこが早乙女に傷つけられネガティブまっしぐらになったことで、脳内がめちゃくちゃになる→脳内会議メンバーが石橋に帰ってきてほしいと叫んだことで石橋が帰ってくる→いちこ、石橋(ポジティブの思考)を頭の中に取り戻したことで自分の気持ちに踏ん切りをつける気になる→自ら早乙女への別れを告げる
といった展開でした。

しかし、この展開だといちこがポジティブを呼び戻すために取った行動が一切描かれていません。本来いちこありきで脳内会議メンバーが動くはずであるところ、ここだけ脳内会議メンバーありきでいちこが動いてしまっています。どちらもいちこ自身ではあるのでにわとりが先か卵が先かみたいな話ですが、いちこが考えようという意志を持たない限り脳内メンバーは考えられないと思うので「?」となりました。

ポジティブになろうと無理やり思考スイッチを切り替えたことを比喩してる?とか、色々考えてはみたんですがそれでもやっぱりしっくりこないんですよね……。
そもそもその方法で前向きになれる人の方が少なくないですか?しかもあの最大限に傷ついた状況であることを考えると……いやいやいや私なら無理。
「ポジティブになる方法10選」のようなサイトに「ポジティブになった自分をイメージする」などといった調子のいい文句がよく書かれていますが、あんなもんでポジティブになれたら苦労してないんですよ。お願いされたぐらいで石橋が帰ってきてくれるなら、私の人生どれほど生きやすかったことだろうと思います(あれでポジティブになれる人はすみません。普通にめちゃくちゃ羨ましいです)

まあいちこが本当に上記のような方法で前向きになれるタイプだったとしても、それならそれでそういうタイプであるという分かりやすい伏線を事前に張っておかないと違和感が生じる気がしたんですよね。そういう思考パターンの描写などは特に見受けられなかった気がするので……(まだ配信を一回見ただけなので現場で再確認します、が、たとえそういう人間だとしてもどん底まで気落ちしてしまった場合上記のような方法は使えないんじゃないかとは思います)このシーンだけ脳内会議メンバーがいちこの思考を飛び出してお助けしてくれたとでも思えばエモいっちゃエモいのかもしれないですし、尺の都合があることも重々分かります。
それでもやはり私としては、ここまで感情に誠実な話をやったんだから最後まで誠実な展開を諦めないでほしかった。

「石橋ー!石橋ー!」と闇雲に叫んで探し回った結果、疲れ果ててボロボロになってしまった脳内会議メンバー達。その時、早乙女の元カノが教えてくれた深呼吸(記憶)のことをふと思い出す。深呼吸をしてみる。なんだかちょっとだけ冷静になる。
そしてちょっとだけ冷静になると、なんで石橋が消えてしまったのかについて考えてみる気力が湧いてくる。石橋を連れ戻すためには何をすればいいのか、何をしたいのか、自分が本当に好きだったものはなんだったか。会議の果てに動き出したいちこと、いちこを見守って眠りにつく感情たち(何かに集中している時って雑念が消えると思うので)
そして再び目覚めた時に、みんなを見守るような顔をした石橋(ポジティブ)がそこにいる。

私がめちゃくちゃ勝手に想像した一例なので、オタクがなんか言ってるようるせ〜〜〜って感じだと思います。すみません……!
ただ個人的にはこういったくだりが少しでもあれば、いちこ本体と脳内の乖離は生じなかったように思いました。
早乙女と別れた直後の深呼吸が息ができているかどうかの確認であるのなら、その前に一度自分としての息の仕方を思い出すというくだりがあってもよかったんじゃないのかなと。元カノとのあの重要なシーンの印象もより深まったんじゃないのかなと。(その時のいちこは深呼吸してみてもよく分からないという感じだったので、その後に「これが息が出来るという感覚なのか」といういちこ自身の主体的な気づきが欲しかったんです)

私自身は、ポジティブって無理やり呼び戻すようなものじゃなくて、何かをしているうちに気づいたら自分の元に帰ってきて傍でそっと励ましてくれているような……そんなさり気ない存在なんじゃないかと思っています。
そう思うとやはり、いちこ自身がポジティブになるためのきっかけを掴んで自分の中にある大切な感情に気づく。そこで初めて、みんなの元に石橋が戻ってきてほしかったなと強く思わずにはいられないですね。

・創作者としてのいちこについて

最初から最後まで、いちこの創作に対する感情が見えなかったのが結構というかかなり残念でした。
というのも、いちこの創作スタンスに納得がいかないという部分に関してだけは、モラハラクソ野郎の早乙女に共感してしまうからです。
早乙女はマジモンのモラハラクソ野郎なので観劇中ずっとイライラするわ腹が立つわで本当にどうしようもないキャラクターだったのですが(そこまで思わせてくださる演技力の高さに感服するばかりです)、一創作者という部分に関しての苛立ちや嫉妬には多少共感してしまう部分があります。
もちろんそれを自身の創作活動として昇華しきれず仮にも恋人であるいちこにぶつけるばかりでは、彼は一生大成出来ないでしょうがね。成人してますので若さは大した言い訳になりませんし、創作者という共通点からくる嫉妬を抜きにしても、言動や行動の端々から所詮彼はいちこのことを常に自分より下に見ていたかっただけなのだろうなとひしひし感じさせてくるので……。

ただ、そんな早乙女にも少なくともプライドだけはあったんだと思います。決していい形ではなかったですし最終的に悪い方へと作用したので駄目駄目なプライドなんですが、少なくとも早乙女には早乙女なりの創作者としての意地があって、そこに向かって今まで色々とやってきたんだろうなということだけは伝わってきました。一応。

その一方で、最終的に映画化の話まで勝ち取ったいちこからはその部分がまるで伝わってきません。
次の仕事が決まるまでの間だけでもと勧められて何となく書いていたweb小説が越智さんの目に止まり、書籍化の話が来て、トントン拍子で映画化の話が進み……順調すぎるぐらい順調であ〜楽しそうだなということは伝わってきますが「じゃあなんでそれを書きたいのか」「いちこにとって小説を書くということはどういうことなのか」という根本の部分は劇中では一向に分からないままです。
色んなことに無自覚で優柔不断ないちこだから、途中までは分からなくても当然だと思います(というか分かっていたら色々と話が変わってしまいます)
でも、だからこそ最後ではそこに気づいてほしかった。早乙女にあれだけ自分の創作活動を否定されてもやめようとはしなかったのはなぜか、不機嫌になられるのが分かっていても映画化の話を喜んだのはなぜか。それは一人の創作者としての何かしらの強い感情が、いちこの中にもきっとあったからだと思うんです。

一つ前の項目でポジティブを取り戻す過程について言及しましたが、もしあの過程における行動が「自分の書いた小説を読み返してみて、そこで初めて自分の作品に対しての"好き"に気づく。自分自身への"好き"に気づく。だから石橋が戻ってくる」だったらめちゃくちゃ腑に落ちていただろうなあと勝手ながら考えてしまいました。ここがはっきりと描かれていると「早乙女と一緒にいるときの自分は好きじゃない」にもう少し具体性が帯びる気がします。
恋愛としてはあえてどちらも選ばないという形で凄くいい終わり方だなと思ったのですが、私はあのラスト、いちこの脳内は元々のフラットな状態に戻っただけなんじゃないかと思ってしまいました。別れる選択をして新しい一歩を踏み出したという状況そのものは一つの成長なんですが、いちこの内面的な成長についてはあまり感じられなかったというか……なので、あのままのいちこならまたそのうち同じような状況に陥らないとも限らないなと思ってしまったんですよね。ん〜〜そこが凄く惜しい〜〜〜……。
「息ができるかどうか」という尺度が恋愛面においてだけではなく、もっと広い目で見たいちこの人生そのものに対してであってほしかったというか……つまり他人の存在を支えにしなくても大丈夫なほどの確固たる自信をいちこから感じさせてもらえるような終盤になっていたら、なおグッときただろうなあ~と思っています。少々無いものねだりかもしれませんが!

3.八木さん評

と、ここまで一切八木さんの話を出さずに来ましたが、そうです私は八木さんのオタクです。
そもそも八木さんが出演しているのでこの舞台を知って見ようと思った、ただのしがない八木さんのオタクです。
なんで最初に八木さんの話をしなかったかと言いますと、観劇マナー云々で八木ファンの悪評が知れ渡っていることにひよった……とかでありません。はい、すみませんでした。特に意味はありません。

ただ正直な話をさせていただくと、八木さん自身への感想よりも舞台全体に対する感想の方が上回ってしまったというのが本音です。
といっても、八木さんの演技は推しの欲目を抜きに……いやここはあえて抜かないで、素晴らしかったと思っています。それはもう本当に。
元々表情を作るのが抜群に上手い人なので、コロコロと表情が変わるコミカルな吉田を見事に演じ切っていました。可愛らしい仕草も普段から大の得意分野なので、いちこと一番近くでシンクロする「議長」というポジションはこれ以上ないハマりどころだったと思います。
また、内部での舞台や他作品での傾向などからして舞台向きでの声ではないと思っていた節があったため今回はその点についてかなり心配していたのですが、実際始まってみると初の舞台稽古で鍛えられたんだろうなということがきちんと伝わってくる発声をしていたように思います。これは完全に欲目ありでの意見ですが、稽古期間も少ない中、よくここまで持っていったなと純粋に尊敬の念を抱きました。(ただ元々の発声に比べればという評価なので、これからも舞台に出る機会があるのならもっともっと伸びてほしいな〜〜〜とは思っています)

そのうえで。
そのうえで、八木さん以外でもっともっと語りたいところが出てくる舞台だったんです。脳内ポイズンベリーは。これは私としてはめっっっっちゃくちゃ嬉しいことなんです。
一定の方は分かってくださるかと思うんですが、これまで八木さんを応援してきた中で、八木さんのビジュアルや仕草などにしか目がいかない(というか、それ以外の"内容部分"については目も当てられないし当てたくない)という作品があまりにも、あまりにも多すぎました。どれも内部の作品なんですが……。

ですので、まともに作品を楽しむ事ができて、まともに気になった箇所について言及が出来る。それだけのことがあまりにも喜ばしいんです。八木さん以外について語れる部分があることが嬉しすぎるんです。今までは「なんでこんなところから言わなければならないんだ……?」の連続でしたから、こうしてきちんと褒めと批評が出来る外部作品に抜擢されたこと自体が何よりも嬉しい。舞台を見てからずっと、今まで得られなかったものを得られた感動を噛み締めています。

『美しい彼』への出演で一度癒されたのも束の間、本当に色々な出来事が立て続けに起こってずっと病んでいました。そんな中でのこの舞台はいいターニングポイントとなったような気がします。私にとっても八木さんにとっても。
この舞台との出会いを一つのきっかけに、今後もまともな気持ちで感想を言いたくなる作品に出続けてほしいと心から願うばかりです。(推しと共演してほしくないと言われるほどのファンマナーの悪さについては、一人のファンとしてただただすみませんの気持ちですが……でも売れてはほしいです……)

さあここまで長々と食っちゃべってきましたが、いざ現場に入ってしまえば私の視界と脳内はほぼほぼ八木さんで埋まってしまうことでしょう。分かってるんです、それがオタク。
そうなってしまう前にこれだけの議題を取り扱えたことは私にとって有意義でしかありません。
関係各所、このたびは配信してくださってありがとうございました。このご時世に関わらず配信は常にありがたいです。
そしてここまで読んでくださった稀有な方、一ファンの取り留めのない感想にお付き合いいただき本当にありがとうございました。
色々と言及しましたが、舞台の良さを再認識出来る素敵な作品でした。やっぱり舞台っていいですね。

とりあえず今は、持参する双眼鏡の倍率について、意味のない脳内会議を当日まで繰り広げておこうと思います(どっちも持っていく)

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