見出し画像

赤いジャンヌ・ダルク謝雪紅 (後編)

228事件における謝雪紅

1947年2月28日、かの有名な228事件が発生した。事件は無許可でタバコを販売していた台北の台湾人老婆を専売局の取締官が殴打したことが発端に台湾全土に伝播した反乱である。この事件における陳儀政府に対する闘争路線2つあり、ひとつは、知識人や立法委員で結成され、話し合いに基づく協調を目指す228事件処理委員会ともうひとつは、各地域の指導者によって指揮された武装闘争路線である。
 台中では、2月28日のうちに決起した台北市民が放送した声明がラジオで伝わり、翌3月1日には台中地区の紳士階級が大屯群役所に集まり、武装闘争によって台北市民の闘争を支援することが決議されたのである。また、3月2日には、市民大会が開催され、楊克煥によって事件の経過が報告された後、謝雪紅が大会主席に推薦された。謝雪紅は大会において、国民党の暴政を攻撃し、市民に対し、最後まで闘争し早急に台湾人民の民主自治を実施するように訴えた。
 大会が終了すると市民は、台中専売局に突入し、武器を押収するとともにデモに移行し、賄賂で私腹を肥やしていた台中県長・劉存忠の住宅を取り囲み、彼を逮捕し、警察署なども占拠した。こうして台中の国民党は3月4日頃までに駆逐されたのである。

ニ七部隊における謝雪紅の役割

 まず、ニ七部隊の成立過程について述べる。1947年3月3日に台中の紳士階級が中心となって台中地区時局処理委員会が設立され、治安維持と組織的な闘争に備えるため「治安隊」が設けられた。しかし、台中近郊に国民党軍が進出したという噂を耳にした処理委員会は、治安隊と委員会の解散を宣言してしまう。謝雪紅と楊克煥は、あくまで抵抗することを主張し、警察局から押収した小銃や軍刀で武装した青年たちの部隊を組織し、国民党軍の拠点を攻撃し、多くの小銃を鹵獲した。謝雪紅はここに至り、武装闘争路線を選択し、台中地区治安委員会作戦本部を設立した。この組織は台中のあらゆる階層の人々が物資や金銭を持ち寄り運営されていた。
 3月4日になると紳士階級は、謝雪紅ら武装闘争勢力の伸長をおそれ、再度、時局処理委員会を設置し、謝雪紅率いる治安隊を傘下の保安委員会・治安本部・「民主保衛隊」に編入した。保衛隊の指揮官には、大日本帝国海軍・海軍陸戦隊の大尉であった呉振武が任命された。これはかつて共産党員であった謝雪紅を恐れた処理委員会の委員たちの意向である。
 しかし、呉振武は指揮官に就任した直後である3月5日夜に自ら拳銃で足を撃ち、戦線離脱をしてしまった。これは、国民党による脅迫や国民党に内通していた処理委員の林献堂からの圧力があったといわれている。
 3月6日に保衛隊は、千城兵営に進駐し、同隊の参謀であった錘逸人が後任の指揮官に就任した。ここで彼が228事件の発端となった前日の闇たばこ取り締まりに伴う虐殺を記念するためにニ七部隊と命名したといわれている。         当時のニ七部隊は、謝雪紅が完全に指揮していたわけではなく、各地域・団体の有力者の小部隊の寄せ集めであり、謝雪紅と錘逸人はニ七部隊の指導権をめぐり、対立している状態であった。また、兵力は400名程度であったと言われているが、離脱も加入も民兵の自由意志であった。
 直接、ニ七部隊を直接指揮していなかった謝雪紅だが、女性の身でありながら最前前線で戦う彼女の勇姿は民兵たちの士気を高揚させ、台湾で最後まで国民党と戦う原動力となったのである。

ニ七部隊の部隊の戦い

  • 3月6日成立。台中地区の治安維持に従事。

  • 3月9日、国民党軍第二十一師団が基隆に上陸。機関銃等で住民に対し無差別大虐殺を行う。

  • 3月12日、ニ七部隊は、国民党軍第二十一師団主力が台中に進駐したため埔里に撤退する。なお、撤退した人員は200名程度であったとみられている。謝雪紅は、物資と人員の枯渇を打開するため、霧社の原住民に対して援軍を要請するも拒否される。

  • 3月13日、ニ七部隊を台湾民主同盟軍に改称。

  • 3月14日、謝雪紅は勝ち目がないことを悟り、直属の部下に対して組織温存のために地下に潜伏するように命令を下し、楊克煥と共に密かに脱出。

  • 3月15日、日月潭で国民党軍に対して夜襲を行い激戦を繰り広げる。

  • 3月16日、埔里に通ずる橋をめぐる呉牛蘭の戦いが発生。元帝国海軍水兵・黄錦島率いるニ七部隊守備隊30余名は、第二十一師団・第436連隊第2大隊・第3大隊と交戦するも、夕方までに制圧されてしまう。ニ七部隊の残存兵力の一部は嘉義などの人民軍と合流するため小梅山中に脱出。


ニ七部隊最後の激戦地・呉牛蘭(1930年代の絵葉書)


台中周辺地図

228事件後の謝雪紅

 ニ七部隊壊滅前に脱出した謝雪紅は、事件後、国民党の宣伝により台中における反乱の首謀者とされ、国民党にとって最大の脅威とみなされた。その一方で台湾の民衆からは、専制・暴君の陳儀に果敢に立ち向かった伝説的な英雄として心に刻まれたのである。
 国民党は3月9日以後、掃討作戦を実施し、平和的解決を望んだ紳士階級も逮捕・殺害され、謝雪紅と楊克煥の手配書は全島の至る場所に掲示されていた。また、国民党は事件に加担した重要人物の出国を防ぐため、港湾施設には厳戒態勢を敷いていた。しかし、なんと、謝雪紅一行は高雄・左営軍港から国民党軍の海軍艦艇に乗り込み、厦門に脱出したのである。これは、謝雪紅が中国海軍第三基地司令部技術員兵大隊の中尉教官と旧知の仲であり、彼を通して艦艇の将校に賄賂を送ったためだ。

中国共産党における謝雪紅

 4月末に厦門に脱出した謝雪紅は、同年5月にかつて活動していた上海に移動し、潜伏した。さらに、6月には、香港に移動し、台湾問題研究会を設立した。ここで、親米派で国際連合による台湾の信託統治を主張する廖文毅と連携を模索するものの、親米派の廖文毅と中国共産党による台湾解放を主張する謝雪紅は、意見が合わず、合作は、失敗に終わる。
 その後、謝雪紅は、1948年7月に台湾民主自治同盟を設立し、その主席に就任した。また、中国本土に逃れていた反国民党台湾人諸派を香港会議で結集することに成功した。この台湾民主自治同盟は、中華人民共和国の民主諸派として、かの有名な政治協商会議にも参加し、謝雪紅は、この委員を務めた。
 しかし、国際情勢は、謝雪紅の中国共産党が台湾を解放するという期待を裏切り、1950年の朝鮮戦争や1949年の金門戦役における共産党の敗北により、謝雪紅が生涯を賭けて成し遂げようとした台湾解放•台湾独立の悲願は、遂に達成されることは、なかったのである。
 その後の台湾民主自治同盟は、存在意義を低下させ、中国共産党のプロパガンダ宣伝機関に成り下り、その首席の地位も形骸化してしまった。
 それに加え、1957年の反右派闘争や1966年から発生した文化大革命によって、謝雪紅は、反革命分子と見なされ、徹底的に弾圧され、遂に全ての役職を失うに至ったのである。
 こうして、何もかも失った謝雪紅は、夫の揚と共に貧しいながらも健やかなる老後を送り、故郷•台湾の土を再び踏むことなく、1970年に肺癌のため、北京で死去した。また、死に際に長年連れ添った夫の楊に対し「どうか最後まで戦い抜いてください。最後の勝利は台湾人のものですから」と伝えた。謝雪紅は、最後まで強靭な意思を持ち続け、その波乱に満ちた生涯に幕を閉じたのである。享年69歳であった。
 また、彼女の遺体は荼毘に付され、革命烈士たちが眠る北京八宝山革命墓地に埋葬されたのである。

文化大革命で吊るし上げられる謝雪紅


1950年代の謝雪紅(右)と楊克黄(左)


参考文献 

  • 「わが青春の台湾 我が青春の香港」邱 永漢 中京文庫

  • 「台湾女性史入門」台湾女性史入門編纂委員会 人文書院

  • 「謝雪紅・野の花は枯れず:ある台湾人女性革命家の生涯」陳芳明(著)森幹夫(訳)志賀勝(監修)社会評論社

  • 「誰の日本時代:ジェンダー・階層・帝国の台湾史」洪郁如 法政大学出版局

  • 「人物で見る台湾百年史」吉田荘人 東方書店

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?