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赤いジャンヌ・ダルク 謝雪紅(中編)

謝雪紅逮捕!!

 上海読書会事件で壊滅した台湾共産党を再建した謝雪紅であったが、1929年2月になると台湾共産党の隠れ蓑であった台湾農民組合と台湾文化協会が一斉検挙に遭い、謝雪紅が二つの組織に築き上げた勢力が大きく削がれてしまったのである。それに加えて、4月には日本共産党の一斉検挙である4.16事件が発生し、日本にある台湾共産党東京支部も弾圧され、解体されしまった。その結果、台湾共産党の指導は内外共に低下してしまったのである。また、これと同時期に台湾共産党内部での派閥争いや中国共産党が台湾共産党を指導下に置こうとする等の内紛が発生し、謝雪紅は1931年五月に開催された台湾共産党第二回臨時大会において除名されてしまった。
 上記の内紛と同時期に台湾共産党の一斉検挙が発生し、台湾共産党のほとんどの幹部は逮捕されてしまった。謝雪紅は主席の身分を失っていたにもかかわらず、党の新中央の幹部の自白や重要文書の押収により、逮捕を逃れることはできなかった。このとき謝雪紅は29歳であった。

獄中における謝雪紅

 1931年6月26日謝雪紅は、ついに逮捕されてしまった。今回は前回と異なり、決定的な証拠が多く、釈放は期待できなかった。しかし、謝雪紅は、投獄された状況であってもその闘志は、けっして失われることはなく、増々強くなっていったのである。そのため、1931年12月30日には、片山潜の訃報(後に誤報と判明)を追悼するため台北の監獄(当時、30余名の台共党員が収監)において獄中闘争を主導し、ハンガーストライキ及びインターナショナルの斉唱を実施した。それに加え、1934年の裁判においても、彼女はどんな困難にも屈しない信念を発揮した。公判が始まると謝雪紅は、激しい拷問を受けたにもかかわらず、今までの検察や捜査当局による弾圧を激しく非難したため、裁判長は狼狽し、被告たちに氏名・職業を聞いただけで、閉廷せざるを得えなかった。
 この裁判の結果、謝雪紅は懲役13年を宣告され、肺病による恩赦のため、1940年まで服役した。つまり、謝雪紅は、9年間獄中にいたのである。

台中における平穏なる日々

 1940年に肺病のため釈放された謝雪紅は、彼氏であり同志でもある楊克煥と再会する。しかし、1935年に釈放された彼は、親からの縁談を断り切れず、資産家の娘と結婚し、3女を設けていたのである。そして、新婦側から提供された資金を元手に台中駅前に三美堂百貨店を開業していた。
 謝雪紅は、楊の薄情な仕打ちを恨んだが、二人はよりを戻し、秘密を守りながら付き合った。某知人の話によると、謝雪紅は、楊の子供を非常に可愛がり、その中の一人がけがをすると救急箱で手当てをしたという。
 また、当時は戦時下であったため、政治活動は一切禁止されており、謝雪紅は、特高から激しく監視されていたため、楊の百貨店を共同経営しつつ、台中の知識人と交流する平穏なる日々を終戦まで過ごしたのである。この五年間が彼女にとって最も平和で幸せな日々であったのかもしれない。

三美堂時代の謝雪紅


終戦直後の謝雪紅

1945年8月に日本が降伏した。日本による台湾支配が終焉し、ほとんどの台湾人が希望を抱いて、国民党とともに新生台湾を建設することに胸を膨らませていた。この期待は半年も経たず裏切られることになるのだが・・・
 謝雪紅は、台湾共産党が中国国民党を帝国主義勢力の一部と認識していたため、当初から高度に警戒していた。それに加えて、台湾を統治する行政長官の陳儀が台湾総督府が1935年に主催した台湾始政40周年記念会において当時・福建省主席の立場で「台湾人は大日本帝国の統治下で幸せな生活を送っている」と発言しているため、到底、国民党による統治に期待できなかったのである。
 そのため謝雪紅は、国民党が接収してくる前(陳儀の台湾入りは1945年10月24日)に新たに、民主主義を求める人民協会や台湾農民組合、台湾学生聯合会、台湾人民総工会等の結成を主導し、他の勢力に先んじて、台湾における政治工作の基盤を整えたのである。つまり、終戦から国民党進駐の50日の間に台湾共産党の後継組織を再建したいうことである。この驚くべき政治的手腕はモスクワにおける訓練と天性の政治的嗅覚によるものだ。

次回、徹底抗戦!!二七部隊指揮官・謝雪紅



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