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海外での生活について

※めちゃくちゃ長文なので、見るとしてもフワッと見てみてください(笑)

今回は別視点から障がいについて考えてみる。

ちなみに海外で福祉の先進国といえば、アメリカなどの欧米型とデンマークなどの北欧型がある。

今回の話はそんな先進国ではなく、途上国での話し。

私は過去の記事にもあるように10年ほど前に2年間南米のチリでボランティアをしていた。

チリは発展途上国は抜けたが先進国とまでは言えないというような状況。

住んでいた場所はチリの中でも特に田舎のため、家は土壁で長屋も多いという日本では考えにくい住環境。

気候は地中海性の気候のため、極端に寒くはないが家に隙間はたくさんあり、そういう意味では寒かったのを覚えている。

チリでの暮らしは2年間丸々ホームステイで、60歳前後の夫婦と暮らしており、とても温かい家族だった。

今でも時々電話がくる。

まぁ、時差も12時間ほどあるため、電話出来ない事も多いが。

さて、そんなチリでは障がいのある方はどのように過ごしているのだろうか。

もちろん環境的にバリアフリーの場所は田舎では非常に少ない。

そんな中で障がいのある方は軽度の方であれば、普通に生活している。

車いすの方が普通に出てきて、ノンバリアフリーのバスに乗るときも近所の人のいいマッチョなおじさんが力技で解決していた。

(おそらく)小児麻痺の子供さんが近所の子供たちと一緒にサッカーしている光景も時々見かけた。

しかし、人口比に対して明らかに見た障がい者の方は少なかった。

医療的な問題で重度の方は延命が難しいのか、それとも単純に出てこない人が多いのかは分かりかねる状況だった。

構造的な障がいのある方への配慮がハード面だとすると、構造によらない人的な障がいのある方への配慮はソフト面だと考える。

そう考えたときに日本はとてもハード面が進んでいて、ソフト面は遅れている気がする。

みんなの協力を得ながら、生活を成り立たせることを自立という。

一方で日本人は自立とは自分一人の力で立つことと考えている人が多い。

それは日本にある自己責任論という考え方も影響している。

少し頑張らないといけないが自分でできる事はやるというスタンスだ。

この少し頑張るというのは意外と曲者だ。

障がいのある方に限らず、頑張るという労力は人によって違う。

なので、ある人にとっては少しでも別の人にとってはかなりの努力が必要だったりする。仕事も同様である。

私たちは仕事で8時間全力でやればできる事を一人分の仕事として扱っているだろうか。

そんなことは決してない。8時間全力でなんてやれないし、自分でできる事も他人と協力してやったりする。

「8時間のうち集中しているのは2時間53分」という研究結果がある。

もちろん職種や業務内容によって変わるのだろう。

研究の仕方で変わったりもするだろう。

なのに発達障がいの子供たちは「その子たちにとって全力で」頑張らないといけない事を、一人でできるからと終わるまできちんとさせるという状況がある。

大人がやらない事を子どもにはさせようとする。これは知識と想像力の問題だ。まずは子供の立場で、その子がどの程度努力しているのかは想像しながらしなければならない。

ちなみにチリ人は「鬱なの!」と言って時々休んでいた。

診断がついているかどうかは分からないけど、あそこまでさっさと休んでいたら悪化は避けられるだろうなと思う。

自己責任論が中心の日本だが、休める環境がなければ自己責任ではなく、病んでしまうだろう。

ちなみに老人ホームでのチリ人の働き方は、10時ころから1時間、職員でティータイム。

昼休憩時間も1時間あるし、書き仕事をしている人はほとんどいない。

お祭り(建国祭)時期にはみんなでお祭り。

サッカーW杯に出場した時にはみんなでテレビの前に集合し、全員で観戦。

バケーションは三週間。

この経験や働き方の経験は今の自分の活動にも活きている。

1つ目がまず今の日本に必要な事はソフト面での充実である事。

2つ目が日本人は働き過ぎだという事。

私の子供が重度の知的障がいを伴う自閉スペクトラム症である事を考えた時、構造化や専門性などのハード面はもちろん、受け入れてくれる人々というソフト面もとても重要だ。

当然のことだが、受け入れる気持ちがないのにハード面ばかり充実しても、とても居心地の悪い社会になるだけである。

きちんと社会はフォローしてるのに、支援を受けている障がいのある人たちは頑張ってない。という考え方にもなりかねない。

そもそも人は社会の中で一人で生きていける人はほとんどいない。

私自身も色々な人に協力してもらいながら、今の自分の役割というものを何とかこなしている。

一人でできるのかと言われたら無理だ。

だからこそ、他に困っている人がいた時にできるだけ助け合える社会というものが重要になる。

しかし、そこに関して日本の世論は少し違う気がする。

まず自分でできる事をしたうえで、それでもできない人は助けようみたいな雰囲気だ。

それ自体は悪くないが、そもそも「自分でできる事」という基準が人によって違う。

受け入れられなければ排除される。

まずは社会全体で知ってもらう必要がある事、そのうえでどのように受け入れる必要があるのかを考えなければならない。

そもそも文科省の2012年の調査で学習面や行動面で著しい問題を抱えた小学生は全体の6.5%(約15人に1人)に上るという調査が出ている。

これは手帳を所持している知的障がいの子や身体障がいの子、特別支援を受けている子は除いた数字であり、これ以上の方が社会の中で困っているのだ。

実際には10人に一人程度の子供が困っている。

決して他人事ではない。これはそういう子どもが多いというよりも、学校教育が子供たちの柔軟な学びを排除しているという事実ではないかと個人的には考えている。

そして、社会の中で10%にも相当するこれらの子どもたちや当事者の方が社会で活かされていかなければ、一億総活躍というのもとても無理な話だ。

ちなみに一部の天才の方々も小さいころには大きな困難を抱えていたという話は珍しくない。

この小さいころに困難を抱えている事で、怒られ、弾かれ、関心を持たれなければ、どのような才能を持っている人であっても、開花する可能性はとても低くなってしまう。

そして、才能がなかったとしても適切な支援がなされなければ、行動障害などの二次障害が現れ、より支援が必要な大人になってしまう。

個人的には基本的人権は当然守られるべきという立場に立っているが、社会的な効率を考えたうえでも、適切な支援をすることは必須なのである。

ではどうすれば、ソフト面の充実が図れるのだろうか。

これはインクルーシブ教育が最も重要だと考えている。

まず第一に会った事のない人に配慮するのは無理だ。座学だけで支援や配慮ができるのなら苦労はしない。

自分も専門性があり、ある程度の方に支援することは可能だと考えているが、見たことのない難病の方への支援となると難しい。

このように分からない事への抵抗というのは人間は非常に大きい。

そして、大人は今から考え方を変えるのも難しい。

だからこそ、考え方の柔軟な子供のうちから自然な形で関わっていくことが理想だ。

今は特別支援学校もあるが、障害者権利条約でもインクルーシブ教育の重要性はきちんと述べられており、それを批准している日本も今後はそのように対応していく必要がある。

つまり、本来であれば支援学校は縮小していく必要がある。

もちろんそのことは理想の域を出ず、むしろ新規で建てるという話も聞く。

このような状況がある中で、今自分たちができる事を考えてみる。

まずは啓発。そして、知識のある人を増やしていく事。さらに協力してくれる人を増やしていく事。

そうすることで、発達障がいがあっても活躍できる大人、それを自然に支える事が出来る人、色々な人に対し柔軟な考え方ができる人が育っていくのではないだろうか。

それは将来的に働けない人の増加、支援が必要な人の減少、みんなにとって暖かい社会へと繋がっていくのだと信じている。

まだまだ構造の問題で日本できちんとしたインクルーシブ教育は難しいが、願わくばそのような環境が少しずつでも増えていく事を祈っている。

偉そうな事を言ってるけど、本音は「うちの子に住みやすい大牟田市であってほしい」という事だ。

そして、私自身にとっても働きやすい大牟田市であってほしい。

私は働き過ぎだから、週3回、午前中のみ勤務くらいが良いよね~(*´▽`*)

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