途切れた世界へ

何故、の答に求められるのは理由なのか動機なのかそれともわたしがそこに込める想いなのか。写真には撮り手が色濃く写り込む。だからこそ、わたしについて語ることは意図的に避けてきた。そこに込められたわたしの感情に対する理解とか共感とかが欲しいわけじゃない。わたしの日々の喜怒哀楽も死生観も祈るような想いも、わたしにとっては「真実」で、そして「なんの価値もない」。そういう前提で、わたしはずっと生きてきた。わたしにとって、わたしは、無価値だ。(そうなってしまった過程の話はすごく暗くなるから言わないよ。)

たぶん、ライブを撮る理由は、バンドごとに少しずつ違う。わたしときみらとの間に流れているものも、その音楽も、それぞれ違う。だから、撮りたいものも、それぞれ少しずつ違う。それがなんなのかはきみだけになんとなく伝わっていたらいいと思うし、伝わっていなくてもいいと思う。最終的には写真がすべてだし、それを見てきみがどう思うかはきみが決めたらいいし、きみがそう決めたんならそれがただしい。

ギャラをもらってライブを撮る仕事はもうしていない。ある日突然また眼がだめになるかもしれない。そうなった時に、わたしはその「最後の選択」を憎まずにそこから先のどのくらいあるのかわからない年月をずっと生きていけるのだろうか、なにを対価として貰えばそうあれるだろうか、と、考えたら、お金じゃなかった。それだけの話。それが「最後の一枚」になってしまったとして、わたしがその一枚を誇りに思えるような、そんな「きみら」だけを撮る。そんなふうに生きていきたいと思った。そうやってわたしがライブを撮り続けているってことは、きみらはその音楽でわたしにその「対価」をきちんと与えてきたってこと。

だから、きみはそこで歌いたい歌を歌っていてよね。

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