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夜に本と帰る

 8月が終わった。もう戻ることのない「二〇二〇年八月」という、一度きりの固有の名詞を噛みしめる。

 一日中、つけていたマスク。白い布が、逆に体に悪そうな何かをため込んでそうで、少し怖い。
 ふと思う。一年前から、世界は急速に変わってしまった。
 

 「こんなご時世ですから」
 よもや現実社会で聞く言葉になるとは予想だにせず。
 そんなご時世のなかでも「ボロボロにならないように気を付けつつ」「幸福にならねば」「生きねば」と堀辰雄よろしく考える。これは、こんなご時世だろうがそうでなかろうが、とても重要なテーマだろう。

 とは言え、「じゃ、どう生きようか」「何のために生きようか」「少なくとも、僕は僕のために生きなければ」「僕のためになることって?僕の満足とは何だろうか?」「<満足を求める姿勢自体>が重要なのではないか?」「そんな風に考えることは、思考停止につながるのではないか?」「しかし、自分自身を枠にはめ込むのも嫌いなのではないか」

 ああもう。悩ましいのだ、疑わしいのだ、悩ましいのだ、疑わしいのだ…。

 文章を書いてみようと足掻いた。漫画もどきを書いてみようと足掻いた。新たな人と話そうと足掻いた。語ろう、僕は僕を確かにしてみたいと感じていた。
 大きな焦燥というか切望というか、何か大きなわだかまりを抱えていた。若さゆえなのか?
 
 つい最近。
 会社の帰りに都会の古本屋に来た。
 驚くほど広かった。地元の普通の本屋の3倍は面積がある。棚が広い。高い。同じ背表紙が十冊以上も並んでいる。昔血眼になって探していた本もそこにはあった。昔行ったさまざまな本屋や図書館のことが思い返された。
 そして思う。こんなにもたくさんの人が本を作った。こんなにもたくさんの考え方がある。とうに絶版になったトンデモ歴史本が並ぶ。かつて憧れた人たちの話をまとめた、イカしたアンソロジーもある。


 ぐるぐるとめぐるうちに、胸がいっぱいになった。
 僕は賢い。色んなものを読むことができる。色んなことを考えるだろう。きっと美しいものが作れる。素敵。
 数冊の本を買って、帰ろう。


 秋の夜。薄墨色の世界を、鞄の中身に思いをはせながら進んだ。


 思い出す、何年も前。人生で一番夜が好きだったとき、夜の美しさを讃える言葉をいくつもノートに書いた。若い日、夜はつまらない日常を忘れさせてくれる美しいものだった。光の宝石を映えさせる黒い宝石箱だった。


 しかし、少し歳を取ると夜の悲しみを知った。夜は黒い夜。本来、羽根を休めてひたすら眠る時間だと感じるようになっていたのだ。


 本を買って帰る今。久々に夜にときめいているようであった。鞄の中には本があるから。黒い世界の中で、輝く美しい物があると、今この時限りは信じていられるようだから。時には羽根をはばたかせたって構わないはずだ。

 街灯や月の仄白さや、鈴虫の輪唱を浴びる。マスクをポケットにしまう。
自転車に跨り、思い切り立ちこぎした。
 幸福だ、やがて冷めるだろう。でも、こうして生き続けるだろうと思った。