明月記私抄を読みながらメモ

堀田善衛の明月記私抄を読んでいます。

定家様が後鳥羽院に勅勘くらった歌について、何が後鳥羽院の逆鱗に触れたのかいまいちはっきりしない。
しかし丸谷才一も堀田善衛もほとんど同じことを言っていて、
定家の和歌が言祝やコミュニケーションとしての性格を失って、個人的な芸術になってしまったことがそもそも後鳥羽院と道を分かった本質であるという。
後鳥羽院、非常に和歌は上手だと思う。
しかしやはり後鳥羽院の和歌は帝王の和歌であり、
定家様が時に見せる異様な凄味や妖艶さとは別のベクトルであるとも思う。
定家様自身は有職故実大好きですし、当たり前ですが古典もよく勉強していますし、伝統を大切にする人ですよ。
ただ、その和歌の才能があまりにも特異に突出していて芸術として独立してしまって
後鳥羽院がそれに対して激怒する。
しかも、その後、後鳥羽院は流されて中央文化にはいなくなる。
なんか色々と考えちゃうわ。
まだ勅勘の直接の原因となった歌の勉強も足りてないし、もう少し自分でも考えてみようと思います。

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