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冬の和歌3

しばらく仕事が立て込んでいて和歌を鑑賞する余裕がありませんでした。
その間もどんどん季節は進んでゆき、もう大雪を迎えてしまいましたね。
忙しいと季節の移ろいを味わう余裕もなくなって、嫌なものです。

ただ、中世歌人ものんびり季節を感じながら歌を詠んでいたかというと必ずしもそんなことはなくて、
特に定家様のような職業歌人は天皇から「歌合せやりたいからこのテーマで〇〇日までに百首!」みたいに言われて必死に頭を捻る、みたいな感じだったりもしますからね。
季節は半分テンプレです。春は桜、夏はホトトギス、橘といえば昔、みたいに。
もちろん日頃から古典を学び感性を研ぎ澄ませてないと詠めませんが、彼らは生の自然よりも凝縮された幻想に生きていた。

さて、テンプレだと紅葉を散らす時雨の後に本格的な冬が来ます。
冬の始まりの頃の歌。

霜がれはそことも見えぬ草の原たれに問はまし秋のなごりを(藤原俊成女)

色鮮やかに花が咲いていたはずが霜に枯れてしまって影も形もない。秋の名残は誰に尋ねればいいのだろう。

狭衣物語「尋ぬべき草の原さへ霜枯れてたれに問はまし道芝の露」が本歌ですが、説明的な本歌に比べてはるかに出来が良い。
本歌は「草の原が霜枯れた」と言ってますがこの歌は「霜枯れは草の原」ですから主述関係がぼんやりしちゃってるんですよ。「は」は係助詞で格助詞じゃないですからね。「尋ぬべき」と意味が明確だった草の原は「そことも見えぬ」とその存在自体がこれまたぼんやりしてしまっている。本歌は体言止めですが倒置によって曖昧に余情を残す言い方になりました。
秋を惜しむ歌。素直にとればそうですね。

喪ったものの手掛かりを求めているのに影も形もなくわずかな名残すら感じられず誰一人頼ることもできない孤独。喪ったものは愛する人ではないですか。本歌より歌の輪郭が曖昧になると、このように別の層を想起することができる。それが、新古今です。


草のうへにここら玉ゐし白露を下葉の霜とむすぶ冬かな(曽禰好忠)

草の上にたくさん玉のように降りていた露が下葉の霜となって凍る冬になった。

よく出来た歌です。これは余情よりもきれいにまとまった歌です。上の句が秋、下の句が冬。
しかし、季節の移り変わりを詠うのに、花鳥風月ではなく葉です。葉の上の露にズームインしてるんです。繊細な感覚ですよ。


鵲のわたせる橋に置く霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける(中納言家持)

百人一首にありますから誰でも知ってますね。
古い時代の歌ですが選者みんなに選ばれて新古今に入りました。
鵲のわたせる橋は、中国の七夕伝説です。
つまり初句、第二句だけで異世界なんです。

この歌は解釈が二通りあって、
「鵲のわたせる橋に置く霜」は天の川、冬の空にきらめく星の喩えととるか、
宮中の実際にある橋のことでそこに霜が降りたととるか。
まあ私は前者の方が断然好きですね。
夜空の星を七夕伝説で鵲が恋人が会うためにかけた橋に霜が降りた、と見立てるなんて
めちゃめちゃ素敵じゃないですか。
現代みたいに余計な光のない冬の星はどれほど冴えわたって白く美しかったでしょう。
夜ぞふけにける、ですからね。
なんで宮中の橋に霜が降りてるの見たら夜が更けたって感じるのよ、と思いますよ。
声に出すと結構たたみかけるようなリズムのよい歌です。か行が多い中に「霜」「白き」の「し」が重なって「ふけにける」と「け」が重なるからですね。

歌は、声に出して鑑賞すべきです。


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