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冬の和歌7「行く水に数書く」

はかなしやさても幾夜か行く水に数かきわぶる鴛のひとり寝(飛鳥井雅経)

飛鳥井雅経。歌も上手いし蹴鞠も上手い。おかげで後鳥羽院にも気に入られるし実朝にも信頼される。
この時代、芸に秀でていることは大事ですね。参議だし。

行水に数書く
(「数書く」は、回数などを記すために線を引くこと。流れている水に線を引いても跡が残らないところから) あとかたもないこと、はかないこと、むだであることのたとえ。水に数書く。
(コトバンクより)

水の上に数書くごときわがいのち妹に逢はむとうけひつるかも(柿本人麻呂)

「儚い私の命ですが愛する人に会いたいと神に祈りました」
まあ万葉集はまっすぐに読むのが正しいと思うのでこうとしか解釈できないですが、
「魂の底から愛する人に会いたいと神に祈っても水の上に数を書くがごとくはかない」ってとりたくなるね。
(文法的に無理があるので、個人的な解釈です)

行く水に数書くよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり(よみひとしらず・古今集)

「私のことを想ってくれない人を想うのは行く水に数を書くよりも儚いことだ」
これは伊勢物語にもとられていて恋の駆け引きみたいな軽いやり取りになっている。

そういう背景を踏まえて

はかなしやさても幾夜か行く水に数かきわぶる鴛のひとり寝

なんですが、
これは伊勢物語の「本当にあなたはつれないんだから!」みたいな軽いやりとりからかけ離れて
どん、と重い寒々しい孤独の歌です。

鴦夫婦は今でも良く使う言葉で夫婦仲の良いことの喩えですが、その鴛がひとりで寝ているんです。

鴛鴦の契り
夫婦仲がとてもよいことのたとえ。
[由来] 「捜神記―一一」に載っている物語から。紀元前四世紀の終わりごろ、戦国時代の中国でのこと。宋そうという国に住むある男性が、美しい妻と結婚しました。しかし、その美しさに王が目を付け、権力で彼女を奪ってしまいます。その結果、夫は自殺。妻も、「夫と一緒に葬ってください」という遺書を残して自殺しました。しかし、王はそれを許さず、二人の墓は少し離れて建てられました。すると、両方の墓から木が生えて、一晩のうちに成長して、枝が絡み合うほどになりました。さらに、つがいの鴛鴦(オシドリ)がやってきてその枝の上に巣を作ったので、人々は感動したということです。
(デジタル大辞泉)

こういう由来を持つ鴛が独り寝ということは、死別ととりたくなっちゃいますね。
この歌を見て当時の人々は先に挙げた二首を思い浮かべ、中国の故事を思い浮かべ、その上で味わうわけです。
「もう幾夜になるだろう、死んだ愛する人をいくら想っても神に祈っても会うことは出来ないで、ただひとりむなしく涙を流す」
言葉にするとこれくらいにしかならないですが三十一文字の裏に言葉にできない世界が広がっていてそれも含めて歌なんです。
鴛は冬鳥ですから、そもそも寒々しいイメージですしね。
深い孤独の上に、それを「むなしいものである」と認識しているのが悲しいですね。
これ、視点が神の視点なんですけど、愛する人を求める自分がいてだけどそれはもう無駄だって本当はわかっている自分もいるんでしょうか。

あ、「行く」「幾夜」の音韻もいいですね。畳み掛けている感じになります。






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