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自由として謳歌するために

その不確かさを、不安ではなく、自由として謳歌するために。私たちは学ぶ。

女は大学に行くな、という時代があった。
専業主婦が当然だったり。
寿退社が前提だったり。
時代は変わる、というけれど、いちばん変わったのは、女性を決めつけてきた重力かもしれない。

2018年春のある日、通勤で乗った電車にある1枚のポスターに目を奪われた。

その不確かさを、不安ではなく、自由として謳歌するために。私たちは学ぶ。

この一言に、わたしは心を奪われた。

ポスターには神戸女学院大学とあった気がする。
今にして思えば何故横浜界隈を走る電車内に神戸女学院大学のポスターなのかと疑問をもたないわけではないが、そのときはそんな邪念をもつ余裕がないほどに、心が鷲掴みにされていた。

高校2年のときの担任はわたしたちに
「知識は持って逃げることのできる最大の財産だ」
と説いた。

わたしは女子校に通っていた。県立の女子校に。
今ではちょっと想像できないかもしれないが…四半世紀前の地方には県立の女子校/男子校が当たり前に存在していた。

件の担任の「お前らは女だから浪人なんてさせられない、だから勉強しろ」という言葉が忘れられない。

四半世紀の時を経て、400km以上離れた横浜の電車内で冒頭のポスターを目にしたとき、あぁ彼はわたしたちに自由を生きてほしかったんだな、と気づいた。
今、教師が生徒に向かってあんなことを口にしようものなら大問題になりそうだけれど、彼なりの愛のある言葉だ。
赤の他人である担任から愛のある教育を受けられたわたしは幸運だった。

今わたしはだいぶ自由に生きている。
職を得て、収入を得て、適度な不自由と適度な理不尽を抱えつつ、それなりに生きている。

だからおもうわけではないけれど…
すべてのひとが頑張らなくてもある程度自由に生きられる社会になってほしい。
家庭も趣味も仕事もバランスよく生きられる社会になってほしい。
苦しみながら不条理のなかで生きるひとがひとりでも減ってほしい。

その日、静かに涙するひとを目の前にわたしは無力感に支配された。
一晩経って、ここが求める世界ではないのなら、世界をかえるためにわたしがそのひとにかわって働こうと、そのひとより長く生きたぶんだけきっとできることがあるだろうと、そう誓った。

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