ヘラクレイトスの川:同じ存在とは?
昨日「テーセウスの船」のパラドックスを扱いました。朽ちた部品を全部正確に再現して新しくなった「テーセウスの船」は、「同じ」船なのか、というパラドックスです。その結論は、可能性上に特定するものとして同じであれば、その船は「同じ」と言いうる余地がある、というものでした。というのも、何かを知っているとは、その何かを可能性上に特定することであるため、可能性上の特定をゆるく考えれば(つまり船の構造と設備だけを特定するのであれば)、その船は「テーセウスの船」として知っているところの「同じ」船と言いうる、というような内容でした。ただ、可能性上の特定を狭く考えて、例えばテーセウス本人が実際に乗っていた船として特定するのであれば、テーセウス本人が乗っていた船が朽ちた時点で、テーセウスの船は失われた、となります。
このように考えると、「もの」というのは、可能性上の特定に相対的だ、と言えます。テーセウスの船は、構造と設備上に特定するのであれば「同じ船」、歴史的必然性において特定するのであれば「異なる船」をなすからです。
テーセウスの船と似たような、ものの同一性を問題にするパラドックスとして、「ヘラクレイトスの川」というのがあります。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「あらゆるものは流動する」という言葉を残し、存在として定常するものは何もなく、存在とは、万物が炎のように闘争する変転でしかない、と主張しました。そのヘラクレイトスが言ったこととして、ある川は一つのものと思われているが、実際に流れている水は、常に流れ去っている、だから、その川は「同じ川」ではありえない、というパラドックスがあります。
このパラドックスに基づいた、もっと極端な考え方として、「視覚」の例が言えると思います。今目の前に見ていて、視覚の捉えているものは、光という、光子からなる流れでしかありません。同じ光子は、おそらく二度と視覚されません。つまり、今目にしている光景も、ヘラクレイトスの川のようなもの、と言えます。
でも、同じ光子が二度と来ないのだから、そこに見えているものは、「同じ」ではありえない、とはなりません(現に、この画面は、同じものである、としか考えられません)。その理由は、常にながれ続ける光において、ある可能性を特定し続けられるなら、その可能性上に特定したものが、「同じもの」として成り立つからです。
それは、もともとの「ヘラクレイトスの川」についても同様です。ヘラクレイトスは、流れている水は常に変わっている、だから同じ川ではない、と考えましたが、「同じ」という意味は、可能性上の特定におけるものなので、例えば地図上の大体この辺りを流れるもの(という地理的可能性上に)特定されるのであれば、それは「同じ川」として成り立ちます。
先ほど、「もの」というのは、可能性上の特定に相対的だ、としました。つまり、可能性上の特定と無関係な、それ自体において存在する「もの」は考えられない、という見方です。ヘラクレイトスの川は、川という「もの」の存在を、その川を構成する「もの」自体においてのみ考えると、パラドックスになる、ということを示しています。でも、現実の「もの」というのは、可能性上において特定されることで、はじめて存在する、と考えれば、現実の川は、同じ川としてありつづけます。その特定のみが、存在の根拠なのです。
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