見出し画像

「こうすべき」バイアスの気づきを力に変えて。豊田市で女性の起業が進む理由

「女性は出産後、子育てに専念するべき」、「女性が働くのなら『資格職』がいい」。
 
女性が結婚、出産後も積極的に働くことに対して否定的な印象をもつ人は、今もある一定数いるかもしれません。それは、東京など首都圏を除く地方では顕著にある傾向ではないでしょうか。
 
こうしたバイアスがある中でも、地方で起業に挑戦する女性は年々増えてきていると言われています。
 
今回お話を聞いた、豊田市で女性の起業やキャリア形成を支援する株式会社eight代表取締役の鬼木利恵さんは、女性の起業に対する意識や行動の変化を感じていると言います。
 
鬼木さん自身、東京、名古屋で人材採用に関する営業職に従事したのち、夫の転勤に伴い移住した奈良県でキャリアコンサルタントとして開業した経験があります。
 
女性たちが仲間を得たときに広がる可能性、仕事から離れて自信を失っていた人が再びキャリアを積むために必要なこと、そして、バイアスに気づいたからこそ実現した大きなキャリアシフトの事例まで、お話を聞きました。

2003年から株式会社リクルートにて人材採用から育成に関する営業、人事採用、営業チーフを経験。2人目出産時に退職。夫の転勤に伴い2011年奈良県にてキャリアコンサルタントとして開業。独立当初は、リクルート代理店より業務委託で奈良の企業の採用のお手伝いや、研修講師、就活生へのアドバイザーの仕事を受けながら、女性と子どものキャリア形成に関わる事業を展開。女性の就業率全国ワースト1位だった奈良で「就業先がなければ自分で仕事をつくればいい」とフリーランスママたちとチームを組んで企業から仕事を受け、ものづくりやサービス開発なども行ってきた。この頃からリクルート時代に培ったマーケティングの知識や実体験をベースに起業支援をスタート。

東京にはない、地方ならではの難しさ

━鬼木さんがキャリアコンサルタントとして初めて開業したのは2011年、しかも、当時女性の就業率全国ワースト1位の奈良県での起業でした。
現在のようにオンラインで仕事をすることが当たり前ではなかった時代に、相当なご苦労をされたのではないでしょうか?

地方ならではの、そして現在では考えられないような環境の中でのスタートでした。
 
当時も出産後に育休をとって仕事に復帰する人はいましたが、それは母親の実家が家から近かったり、夫の職場も育児に協力的だったりする、ごく限られた家庭環境が恵まれた人でした。
 
また、今ではなかなか聞かなくなりましたが、私が起業をした当初の奈良県では、「子どもを育てるのは母親の責任」と言葉にする人も多くいました。こうした環境では、ライフステージが変わった女性がキャリアを諦めないのは難しいだろうなと感じたことを鮮明に覚えています。
 
周囲の環境だけでなく、奈良県は土地柄も、女性の就業率が低くなっていると考えられます。観光産業やサービス業はあれど、県内に大きな産業・企業は少なく、大阪府にある企業まで毎日出勤する人が多いのです。
夫が大阪の企業に勤めていれば、通勤時間を加味すると家にいる時間は短くなります。女性も、子育てをしながら時間を割いて大阪まで出勤するのは現実的ではなく、休日がメインの観光業やサービス業の仕事をするのも難しい。こうした状況で共働きは現実的ではなく、女性が出産後にキャリアを諦めてしまうのも当然だと思いました。
 
ただ、私が開業当初に「ワンコインキャリア相談会」を開催すると足を止めてくれる女性はたくさんいて、FacebookやTwitterで女性のキャリア支援に関する発信をすれば、たくさんの反応を得ることができました。
 
そこでわかったのは、諦めたキャリアについてモヤモヤとした感情を抱いている女性がたくさんいるということでした。
 
ライフステージが変わった時のキャリアの選択肢は、社員としてフルタイムで雇われることだけではありません。モヤモヤを抱えた女性たちが、ゆっくりでも仕事を再開することが必要なのではないかと思い立ち上げたのが、「奈良のママが仕事をつくる会-ナラマーシカ-」という、働きたい女性と企業のマッチングを行う任意団体です。
 
メンバーは、料理教室の先生、栄養士、設計士、プログラマーなど、バックグラウンドは違えど、キャリアを諦めたくない方々と、営業が得意な当時の代表と私でした。
 
私たちが企業の担当者へ対面で営業をして、コミュニティ内での会議や企業とのマッチングはSkypeを中心に行いながら、少しずつ実績を増やしていきました。

オンラインで行われた取材の様子

「後悔した経験があるから」起業支援を続ける原動力

━リクルートでの営業職から夫の転勤先での起業と、働く環境や場所に変化があった中でも、鬼木さんが仕事を継続してきたのはなぜでしょうか?

今となっては当時の経験が糧になったと言えますが、ライフステージに変化があったとき、自身のキャリアに関する決断で反省すべき点が多くあったからだと思っています。
 
東京のリクルートで働き、仕事が楽しくて仕方がない28歳のときに、学生時代から付き合っていた現在の夫との間に子どもを授かりました。
 
子どもを産むのなら当然結婚をするものだと思っていましたし、そうした状況では三重県への転勤が決まっていた夫に私が付いていくことが当たり前だと思ったんです。
 
深く考える時間がない中で下した決断には、こうしたバイアスがかかっていたと思うんです。大好きな東京、そこで築いてきた人間関係を手放して、いわば夫のために三重県と隣接する名古屋へ転勤することにしました。
 
そして、第二子を授かったときに夫の奈良県への転勤が決まり、産休に入る前に会社を辞めて奈良県で起業することにしました。育休から復帰して、奈良から名古屋へ通勤することで周囲の人に迷惑を掛けてしまうことも嫌だというネガティブな理由でキャリアを決めていました。
 
こうした時期があった中でも、私が仕事を続けてこれた理由のひとつは、中学生のときにお世話になった恩師に「大人になって俺と再会するときに、仕事を辞めて家庭に入ったなんて言うなよ」と言われたことです。
 
それだけ期待されているという意味だったと思うのですが、当時からどのような形であれ社会に貢献できる人間であり続けたいと思っていたんです。
 
もうひとつは、自分たちの子どものことを思ってです。第一子の育休中、周囲に親戚も知り合いもいない状態で家に篭って子育てをしていた期間は、自分の精神衛生が良くありませんでした。
 
子どもの成長のためにも、私たち親の生活が充実して、いつでも笑顔でいることは重要ですし、小さい頃から色々な大人に出会って欲しいと思いました。
 
私のように家庭環境の変化でキャリアを諦めた人のサポートをしたい、そして、仕事を継続することの重要さを身をもって学んだからこそ、今の私があるように思っています。

女性の起業に対する意識の変化

━株式会社eightは、2016年度から豊田市3機関(豊田市役所・豊田商工会議所・豊田信用金庫)との合同企画として、女性起業ならではの課題に応える支援「とよたで女性の起業できます.PROJECT」をスタート。活動を始めてから現在に至るまで、女性の起業に対する意識に変化はありましたか?

「とよたで女性の起業できます.PROJECT」は、豊田市役所・豊田商工会議所・豊田信用金庫の各機関が行っていた支援を一本化し、段階を追って成長できる仕組みから、女性起業ならではの課題に応える支援を行う。将来的に事業として発展し、雇用を生み出すまでのサポート体制が整う。

女性の意識も、周囲の理解もだいぶ変化したように感じています。こうした行政の取り組みがあることで、近隣の市の方から「豊田市はいいですよね」と声をかけていただく機会も増えました。
 
豊田市には豊田市ならではの働く女性を取り巻く環境があります。やはり、トヨタ自動車で働く夫と、それを支える専業主婦の妻、という家族がとても多かったのです。それが、最近では出産後も当たり前のように職場復帰する女性が増えています。トヨタ自動車のような大きな企業の意識変革も後押しになっているはずです。
 
「とよたで女性の起業できます.PROJECT」では、2021年と2022年にビジネスコンテストを開催したのですが、企画当初は応募する人がいるのかという疑問の声も挙がっていました。ただ、私は、自分のビジネスプランを人前で話せるような方々が増えてきたことも体感していたので、プロジェクトの成果を一度見える化したかったのです。
 
結果的に、初年度には約30の優れたビジネスプランのエントリーがありました。応募されたプランは、教育、福祉やメンタルヘルス、伝統工芸を継承していくような、人々の心の豊かさに繋がるようなものも多く、こうした活動が誰もが住みやすい街づくりにも繋がるように感じています。
 
一度キャリアを中断した人が同じ職種で起業をするケースももちろんありますが、看護師、助産師、保育士だった方がリスキリングから異なる職種でキャリアを築きあげるケースも増えてきました。
 
例えばeightのプログラムに参加していた女性のひとりは、元々、助産師、保健師として働いていたのですが、27歳で結婚をしてから、プログラマーに転身されました。
 
そこまで大きくキャリアを変えることができたのは、夫の影響も大きいと話していました。自分が本当にやりたいことは何なのか、やりたいことがあるのなら挑戦すべきと応援してくれる存在でもあったそうです。
 
なぜ助産師、保健師というキャリアを選んだのかと振り返ったら、「親から助産師と保健師の資格をもっておけば安泰」と言われたからだったようです。
 
この方だけではなく、親からの「女の子はこういう仕事を選ぶべき」という呪縛があったから、本当にやりたいことを考えてこなかったという女性も多いです。そうした女性たちが、改めて自分のやりたいことに向かい合い、パートナーや友人、私たちのようなキャリアコンサルタントと一緒に内省を重ねて、キャリアシフトすることも多くなっています。
 
獣医師として開業もしている方で、自分のやりたいことにとことん向き合った結果、ドバイやインドネシアまでミスコンを出場しにいくというになった女性もいます。
 
一度覚悟を決めて、理解のある仲間が周囲にいることでどこまでも飛躍をすることができるんですね。

周囲の環境や企業が女性の挑戦のボトルネックになっていないか?

ー鬼木さんが起業をされた当時と比べると、社会全体で女性が働くこと、起業をすることへの理解が深まったように感じます。
ただ、現在でもキャリアを前進させることに戸惑う女性は多くいます。そこには、どのようなボトルネックがあると思いますか?

自分の能力を過小評価してしまう方が多いことですね。これまでの多くの女性を支援してきた中で、自分のスキルに自信をもつことのできない「インポスター症候群」は、子育てが落ち着いた40代〜50代の女性に多いと実感しています。
 
なぜ自信がないのかというと、仕事をしていた時期からかなり時間が経っているからです。また親のバイアスがなくても、豊田市なら大手企業や金融機関の一般職に就いて、結婚することがゴール、という社会的な風潮もありました。
 
そういった方々が働いていた時に担当していたのは、窓口業務や電話番、コピー取りが中心で、自分に責任があり、小さくても仕事を達成する経験をされてきませんでした。
 
このような女性がまだまだたくさんいることに、危機感を持っています。だからこそ、「とよたで女性の起業できます.PROJECT」では実践型のプロジェクトを多く提供しています。
実際に商品を店舗に出してコスト管理をたり、市内の企業へ納品をしてフィードバックをもらうところまで実践できるよう設計したこともありました。実際に行動して、失敗もしながらもそこから学び、少しずつでも利益を上げることが参加者の自信へと繋がっています。
 
私が豊田市来た当初は、一般消費者をターゲットにしたビジネスを立ち上げる方々が大半だったのですが、最近では対企業のビジネスに挑戦する方も増えてきました。
 
また、真剣に女性たちのプレゼンを聞いてくれる企業も増えています。
 
数年前までは「主婦のお遊びでしょ、仕方がないから聞いてあげるよ」という態度を取られることもありました。プレゼンが終わったら、事業への思いや目的を聞かず、まずその事業のキャッシュポイントを指摘して、「そういうところまで考えないと絶対に無理だよ」と、いわゆる男性経営者的なアドバイスを一方的に受けることも。
 
でも、こうして何年も活動を続けていると、女性ひとりでも企業向けビジネスを興せることが結果として見えてきており、対等に話を聞いてくれる企業は増えています。
 
企業が変わってきた中でも、まだまだ変化を感じることができないのは、支援者としての金融機関や行政主導の支援機関でしょうか。
 
先日も子育てを理由に大手企業を退職された、とても高いスキルをもつ女性が開業相談のために金融機関に行ったのですが、そこではずっと「奥さん」と呼ばれていたそうです。開業計画を聞かずに「ご主人は何をしてるの?」、「ご主人の年収は?」と質問をされ、それが融資を決める判断基準になっていました。
 
こうした発言をする支援者への啓蒙はまだまだだと感じています。国としても、経済産業省などが支援者向けに女性の起業支援に関する啓蒙活動を行っていますが、浸透には時間がかかるでしょう。そこで私たちができるのは、女性たちの縦横斜めの繋がりを増やしていくことだと思っています。
 
女性はコミュニティ作りやネットワーキングがとても得意だと思っているので、そうした繋がりを通して安心できる場を作れたらと考えています。女性だから、母親だからというバイアスがかかった発言をされても、「そんなこと気にしなくていいよ、次に行こう」と声をかけてくれる仲間がいることが、大きな挑戦をする上での力にもなります。
 
奈良県で起業をした時のことを振り返ると、社会も、女性の意識も、そして私自身も大きく変わることができたと感じます。今できる活動を継続していくことで、今では想像できていない未来があるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?