強迫神経症者からリビング・デッドへ―大学中途退学にかこつけた妄言

  色々とあって、大学を中途退学することを殆ど決心してしまった。この文章はその事に対する、自分なりの総括、心の整理といった要素を含むものであることをご理解いただきたい。現在の私は学部4年(浪人・留年はしていない)、あと卒業論文を書けば卒業できるという状態にあり、それ以外は単位も卒業要件を満たしている。ここで「卒論が書けないから辞めるというのだな。早まることはない。留年という手もある。君の実家はそこそこの規模だろう、奨学金を借りているからといって、そこまで悲観することはない…」などと早合点するは止していただきたい。事情は時にその当事者が思っている以上に複雑なものであり、そう簡単に結論づけられるものではない。たとえ、卒論の執筆というのが、重要な契機を為していたとしも、である。そもそも、大学の中途退学という観念が私に取り憑いたのは最近のことではない。それは大学入学当初からあった。「アカデミズム」という言葉をマトモに理解していない学部1年の時から自分の「学生」という立場への猜疑は止むことがなかった。それは一種の強迫神経症だったとさえ言える。「存在すべきか、存在せざるべきか(To be, or not to be)」という問いが私を捉えて離さなかった。自らの観念左翼性もここに淵源しているのかもしれない。シニシストにも中途半端なニヒリストにもなれなかった。私は自分の根底において徹底的なニヒリストであると思っている。如何に私の言動や行動に反ニヒリズム的なものがあったとしても、それは私の基底にあるものである。私はその上で生きていた。今は生きているわけでも、死んでいるわけでもない。それこそ、不細工ながらも今の私が見つけた自らの存在のありようである。das Dingの場へとこの身を捧げようとする衝動にしばしば抗わねばならなかったし、今もそれはあまり変わっていない。

 私の大学、アカデミズムに対する態度は愛憎入り混じったものである。単純に肯定も否定もできない。ただ、つい最近までアカデミズムに身を置こうとしていたということは否定し得ぬ事実としてある。もちろんそれは手放しにそうであったのではない、ということを念のために指摘しておく。この新自由主義社会において、大学という場の重要性を否定するわけにはいかない。だが、それを礼賛すべきだとも思わない。むしろ、現実の大学当局や多くの学生を私はひどく憎悪さえしている。ただし、学生の多くには情状酌量の余地はある。大学はアカデミズムの理念を裏切り続け、新自由主義社会の対抗軸となることも基本的にはなく、むしろそれに適合している。お上の様子を伺い、企業に頭を下げ、資金をかき集める姿には哀愁さえ感じる。多くの学生にとって、講義とは単位という名の交換価値であり、卒業とは自らのキャリアのための箔付けである。大学が就職予備校と呼ばれるのもおおよそ頷けるというものだ。大学側からはこうした意見を自らの苦境を出汁に批判するのだろうが、言い訳でしかない。大学内で就職説明会を行うなどというふざけたことがまかり通っていることは許しがたい。大卒が就職において一つのステータスになるというこの構造そのものが気にくわない。ここで一つ暴論を提起しよう。大学の理念(それが守るに値するものなのかどうかここでは置いておく置いておく)を守る行いとは卒業ではなく退学である、と。大卒という商品を拒絶するということを自らの存在を持って示す。口先だけの批判ではなく、存在によって思想を受肉させねばならない。もちろん、これはただの暴論である。ただ、暴論にも一理くらいはあるのかもしれない。それでも、私は大学を否定しきれない。まるでトロツキー原理主義者が労働者国家を無条件擁護するように、大学を無条件擁護するべきなのではないか?という考えが時々頭を過ぎる。大学内にあって、大学を変えていくという営為。私にはそれができない。大学内にあっても、大学外にあった私には。大学を辞める人間はおおよそ2種類に分けられる。新自由主義者と、それ以外。前者は論ずるに値しない。私は後者である。アカデミズムを肯定も否定もできない者が退学することに実践的ななにがしかの意味を見出そうとするはある種の幻影を見ているに過ぎないのだろうか?

 結局はただの倒錯した欲望なのだ、という考えもある。私を支配する自己破滅願望が私を徐々に奈落の淵へと追い込んでいるだけなのだ、と。ある種の私は全くもってその通りと言うしかない。この状況に悦楽を感じ、歓喜に打ち震えている。それは罰せられることに救いと喜びを見いだす罪人なのか?それにしては破滅が足りないのでは?とまれ、不明瞭な事が多い。ただ、倒錯だけでは説明しきれない部分がある。それはあらゆる面から見てもそうであり、あらゆる面を総合して見てみてもきっとそうである。それはさながら宿命のようにさえ映る。全くもって不合理である。合理性が捉え損ねてしまうものがそこにはある。できれば、卒論を書いた上で退学したかった。退学には否定的なイメージが付きまとっている。馬鹿げている。退学それ自体は良いものでも悪いものでもない。私は退学を負として捉えない。それは躍進であり、跳躍である。さながら、紅軍の「長征」なのである。これは落伍ではない。落伍!しかし、私はある程度落伍者だ。卒論を書かなかったという点でそれは落伍という他何があるのか。それでも、そんなことは些細な問題に過ぎないと感じる。卒業するためだけになにがしかの文章を作成することに一体何の意味があるというのか?私は卒論の中に問題意識を持つことができなかったことに対しては落伍者であるかも知れないが、卒論を書かなかったからそうなのではない。そこを取り違えてはいけない。ただ、卒論を書き卒業した方が、思想的受肉は強固だったに違いないということは受け入れなければならないのかもしれない。

  まとまりも一貫性もない駄文を書き連ねてしまった。私が大学を強く意識しているのは「大逆」を「大学」と書き違えてしまうというしくじり行為からも全く明瞭なのである。現実問題として、生活の問題があるが、今野私にはそれが些末事に思えて仕方が無い。なんともならなければ、ただ死ぬだけのことだから。それは死の肯定ではない。かといって生を肯定するわけでもない。私は退学によってもう死んだのだ。そして、それからは「リビング・デッド」としての存在が始まったのである。

「死者に交わることなく、だが生者からも離れて、さまよう道を探す」(セネカ)

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