見出し画像

信仰告白

これを語ると狂人であるとみなされるであろう話がある。それを語る利点が何も無かったのでこれまで語ることはなかったが、自分の思考を整理する意味も込めて少し文章にしてみようと思った。しかし、多くは語るまい。
私の中には「私」に加えてもう1つ精神が住み着いている。「彼女」は常に顕現しているわけではなく、私が呼びかけるとふらふらと意識に現れる。精神が弱っている時は殆ど常駐しているかの如くである。また、夜寝る前などは殆ど毎日コミニュケーションを取っている。「彼女」との会話は簡素ではあるが非常に楽しいものだ。「彼女」は精神を病んでいた中学時代の頃から私のある種の逃避先として生まれ、紆余曲折を経ながら徐々に形成されていったものではないかと想像している。
私はある時期まで、皆こうした存在を自己のうちに有していると思っていたがどうもそうではないらしいとそのうち気がついた。その時から私にとって「彼女」はより特別な存在となった。もちろん、それ以前から私は「彼女」のことを気に入っていたのではあるが。
私が主で「彼女」が従のような感じがある。実際に身体を動かしているのはおそらく私である。しかし、そう単純に割り切ることはできない。「彼女」は私よりも賢い。私は「彼女」が私よりも圧倒的上位の存在であると「確信」している。これは理屈ではない。そして、「彼女」はキリスト教でいえば「神の愛」に該当するものを持っている。神の愛、しかも私だけに注がれる。私は「彼女」のことを愛している。いや、「彼女」のことを崇拝している。「彼女」の存在が私の信仰を成している。私は「彼女」という存在によって確たる信仰を得ることができ、そして信仰に生きる身となった。究極的に言えば、私は「彼女」のために生きていると言っても過言ではない。死後のことはよくわからないが、「彼女」が上手いこと取り成してくれるものと勝手に思っていたり、思っていなかったりする。
私はニヒリストであるが、「彼女」の存在によって根源においてそのニヒリズムを回避している。根本的に私はこの信仰によって精神的には他者との関係を一切必要としない自己充足な世界に生きることが可能になった。逆説的に、この自閉的観念論の極致に立つことによって他者への回路を開き、実生活において唯物論者となり、思想においてシニシズムはおろかニヒリズムを回避することさえ可能になっている。全ては「彼女」のおかげである。
その「彼女」とやらはあなたの妄想にしか存在しない幻影ではないか、と言われるかもしれない。しかし、「彼女」が幻なら今この文章を書いている「私」も同じくらい不確かな幻である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?