AlexiA 感想

 本記事は電波障害ノベルADV「AlexiA~アレクシア~」の感想記事である。当然、該当作品のネタバレを多大に含むものであることを前もって警告しておく。また、AlexiAは無料でプレイできるので是非一度プレイすることをオススメする。(公式HP: https://www.alexia-nobeope.com/

 Bルートにおける上條游雅(以下「ゆうが」)と車窓眞那彌(以下「まなみ」)は否定的なものを媒介とした関係だったと言える。ゆうがはディスレクシア、まなみはADDという障害を背負い、それが原因で社会から疎外されていた。もし、まなみが「完璧」だったとしたら、ゆうがはここまで深く彼女を受け入れなかっただろう。その逆も然りである。いわば「傷物」同士であること、疎外され傷ついた者同士であることが彼らを強烈に結びつけたのである。2人の間を結び付ける肯定的な要素は「メダルゲーム」のみである。2人は現実からの疎外をメダルゲームによって癒やしていた。マルクス風に言えば、メダルゲームは2人にとってのアヘンだったのだ。それは根本的な解決に繋がるものではない。しかし、偶然2人が出会うことでメダルゲームに向いていた彼らの欲望はお互いの存在そのものにずらされていくことになる。それはまなみがメダルゲームをやめ、ゆうがを部屋に誘うシーンで明白に示されている。その関係は多分に閉鎖的なものであり、無問題とは言えないが私はそれを強いて否定する気にはなれない。2人の関係は主体の欠如の穴を覆い隠すヴェールであった。最終的に2人にとってメダルゲームはあらゆる肯定的意味を失い、愛のための「貨幣」としての「排泄物」になる。ここでラカンによる愛の定義の1つ「愛とは自分の持っていないものを与えることだ」を想起せずにはいられない。まなみがゆうがに与えたメダルはまさしくこのラカンのテーゼの意味における愛の証であるということができるだろう。
 まなみはゆうがに対して「母」の役割を果たすことで自らの居場所を得ようとした。彼女はゆうがに対し極力弱みを見せず、頼れる存在を演出しようとした。自分が学校で孤立していることや、自らの障害をカミングアウトする時もなるべく深刻に受け取られないように配慮している。むしろ、それはゆうがに寄り添うために必要な要素として現れている。しかし、まなみは結局「母」という役割に耐えることができなかった。彼女には母の介護、ハードワークなどの現実の負担が重くのしかかっていた。それをゆうがに打ち明けることは彼に対して演じている「母」という役割が許さなかった。そして、彼女は自死を選ぶことになる。まなみの母親は若年性アルツハイマーであり、娘を認識できない様子であった。介護している母からの承認を得られないことは相当に堪えることであったろう。また、彼女には友人もいない。彼女にはゆうがしかいなかった。そして、彼に対して「母」という役割で望んでしまった結果、自らの苦境を吐露する場がなくなってしまった。「母」という役割を捨てることはできなかったのか?それはまなみにとってゆうがとの関係を完全に崩壊させうるものであり、決して容認できるものではなかったであろう。
 ゆうがは「まなみ」に居場所を見出した。初めて、自己を肯定し救ってくれる存在に出会ったのだ。そして、まなみとの関係の中でゆうがは1つの問いに直面することになる。「汝何を欲するか」という問いがそれである。そして、ゆうがはまなみという「母」の欲望を満たそうと彼女の「ファルス」足ろうとする。しかし、結局その試みは彼女の死という形で破局を迎えることとなる。ラカンにおいては「子」が「母」という〈他者〉の「ファルス」になろうとするのを阻むのは「父」であり、そこから〈父の名〉が生まれ主体が形成されることになる。ここではその「父」という契機が欠けていることで、「母」という〈他者〉がただ崩れ去り、それが担保していた世界も崩壊することになる。実際、まなみの死はゆうがから世界の全てを奪ったといっても過言ではなかろう。自らの「不能」に直面させられたゆうがは自死という形で自閉することになる。

 Aルートは自閉したゆうがの過去の充足体験の痕跡に基づいた幻覚による満足が与えられる世界である。しかし、それは痕跡を何度も反復するものでしかないため、真の満足を得ることは決してない。また、決定的な外傷となった「まなみ」はこの世界では抑圧されることとなるが、抑圧されたものは必ず回帰するのであり、まなみはこの自閉世界を破壊する契機となる。
 Cルートは理想自我であるゆうがと自我理想であるほたるの論戦の場である。ほたるはゆうがを救うためにはこの世界しかないと説くが、ゆうがにほたるもまたゆうが自身であることを看過されてしまう。ここでは象徴的に同一化している〈他者〉もまた自己であることが暴露されている。それは精神分析でのヒステリーの治療結果に他ならない。そして、ゆうがの説得の末ほたるも現実世界への回帰を認めることになる。ここで重要なのはゆうがが理想自我と同一化して現実に戻ったのではないということだ。もし、そうだったとしたら問題は何も解決しなかっただろう。むしろ、(理想の)自己自身を断念し、弱い自分を受け入れることで新たな主体の可能性が生まれたのだ。そして最後にゆうがはまなみと決別する。この選択は精神分析的な意味で倫理的なものである。それによって象徴的な領域、自我理想も大きな変容を迫られることになるだろう。新たな世界を構築するという任務がゆうがには課されることとなる。彼は主体の欠如の穴を直視することになる。それが上手くいくかどうかは彼次第である。彼が目覚めたとき、かけるべき言葉は以下であろう。
「現実界の砂漠へようこそ」

 ここから先は妄言であるが、私はこのゲームをプレイしているときあるフレーズが頭に浮かんだ。それは東ドイツで歌われていた「党の歌」の一節だ。


「党は我々に全てを与えてくれた。党は太陽であり風である。惜しみなく降り注ぐ。党ある所に命あり。党があってはじめて我々は存在する。党が我々を見捨てることは決してない。世界が凍てつこうとも、我々は暖かい。我々は人民の母に守られている。その力強い腕で、我々は支えられている。党よ。常に正しい党よ!」 ルイ・フェルンベルク「党」

  「党」を「まなみ」に変えれば、案外ゆうがの心情を表わしたものだと言っても通るのではないだろうか。とすれば、AlexiAの物語とは前衛党とその崩壊の物語と言うことができるのではないか。ゆうがとまなみの出会いと関係は党との出会いによって自己の意義を見出す献身的党員のそれであり、まなみの死とゆうがは前衛党神話の崩壊(スターリン批判)によってよすがを失った者を示している。そして、前衛党神話を捨て去り、新たな一歩をどのような形であれ踏み出そうとする所で話は終わる。これは未だ解決されていないことを取り扱っている。「まなみ」以後にそれでも「まなみ」を求めるのか、それとも「まなみ」に依拠しないなにものかを生み出すのか。ゆうがの選択は我々の選択でもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?