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るなすぺ楽屋裏「強者への道」

さて、雀魂Fリーグ開幕したものの、対局やプレイヤー紹介については公式の広報が出してくれてるし、仰々しく戦術論っぽいこと書くのもなんだか自分の領分じゃないしってことで何を発信しようかなと悩むこと一か月。せっかくだから表に出ない楽屋裏で話題になった楽しそうなネタをピックアップして届ける形にしようかな、と思って書き起こしてみる実験企画。続くか続かないかは第一弾の反応次第ってことで書いていこう。今日はたくさんの麻雀打ちと交流を積んできた稚児さんの話から。

突然だが、麻雀強くなりたいなあ、と漠然と思った経験がある人は多いだろう。だが、気持ちとは裏腹に麻雀は上達がとても難しい競技だ。そこには、技術的、理論的な問題以前に、構造上の問題が潜んでいる。今回は出来る限りわかりやすく、この構造上の問題を項目別に切り分けて紹介していきたい。

①初心者の期間にトラウマが生まれやすい

これが最初の課題にして、実は麻雀の上達に関しての最大の障壁になる問題である。実際私自身も数多くのドロップアウターを見て来た。これは一人のプレイヤーとしては非常に残念なことで、なんとかしなければいけない部分だと思っている。麻雀はボードゲームの中でも飛び抜けてルールが複雑で、覚えるべき例外のような事項から気が狂ったような点数の計算方法に至るまで、とにかく入り口の敷居が高い。だからこそ、身近な打ち手に気軽に教わりたい、という気持ちが生まれるのは初心者の間は必然だとも思う。
ただ、この「人に教わる」というアクションが非常に危険で、実は常日頃から牌理に関して発信をしているごく一部の人間を除き、麻雀打ちのほとんどは理論立てて自分の打牌の説明が出来ない。その結果、「それはダメだ」「こうなったらこっちを切れ」「普通にこっちだろ」という出来損ないのAIみたいな出力ばかりになった挙げ句に、本当は判断が微妙な場面でも「微妙」とは言わなかったりするので、受け手側の心情としてはかなりの圧迫感が生まれてしまう。あえて心情を書き起こすならば「どうやら正解があるらしいが、正解になる理由は教えてもらえないし間違うと怒られる」という最悪の感情に至ることになる。こんなアプローチで麻雀を好きになれ、という方が普通に考えたら無茶苦茶な話で、ここは本当は麻雀好きのコミュニティ側、言うなればプロアマチュア含めた全体が整備をしてこなければいけなかった部分であり、私も関わる機会があれば助力が出来たらいいな、と考えている部分でもある。
余談になるが、何切るでおなじみのウザクさんが発信している内容はこの辺の事情をかなり考えているんだろうなと思わせるところが多く、麻雀コミュニティ全体を考えた上での立ち位置は非常に希少で重要だと感じている。ある程度打てる人にとっては「そのくらい普通にわかるだろ」くらいの内容に対してしっかりとした弁を尽くすという書物は過去を遡っても私が知る限りは数が少なかった。もっとあのタイプのポジションの人が増えてくれるとうれしい限りだ。

②上級者は自分の方から教えには来ない

これはある意味①の裏返しのような話になるのだが、麻雀が上手な人に限って、他人のスタンスや意志を無視して外野から意見を述べるような真似は決してしない。既に書いた通りだが、たとえそれが100%正しい指摘であったとしても、本人が望んでいないような方法での助言はプレイヤーの人口を減らすだけだし、何よりも全く助言として機能しない、という点を誰よりも理解しているからだ。
これを未だに理解していない「自称中級者」はどこのコミュニティにも実はたくさん潜んでいて、ゲームの配信経験がある人間であれば間違いなく過去経験したことがあると思う。現代の言葉を借りれば「指示厨」と呼ばれる属性のオーディエンスだ。
これがいかに害悪であるかは分かる人には語るまでもないことなのだが、知らない人のために念のため記載しておこう。まず、属性の偏りとして中途半端な識者で固められているために指摘そのもののクオリティが低い。そして上から目線で発言することそのものに快感を感じているため、上級者の配信には現れずにビギナーの配信ばかりを狙って文句を言い連ねるだけなので、彼ら自身の知識やスキルが向上することは無いし、ビギナー側は嫌気が差してコミュニティから離脱してしまうという連鎖が発生する。本当にこれは百害あって一利なしとしか言えないもので、早くこの世から消えてほしいと切に願っている。これを真っ向からぶっ潰しにいってる多井プロは、麻雀というコミュニティのことも、ゲーム配信という業界のこともよくわかっているからこそ本気でやっているんだろうなと感じる。
だいぶ話が脱線してしまったが、要は上級者たちはその辺のコミュニティ全体にとっての自分の行為の価値、みたいなものがかなりクリアに見えているので、マイナスになることはしてこない、というだけの話だ。だからこそ、「実は教えたい!!!」という気持ちに満ちている上級者はたくさん居るので、「教えてください」とお願いすると喜んで教えてくれたりする。教えを乞う側はそこの一歩がとても重要なのだ。

③多くの初~中級者は、大事なことが何かがわからない

これは半分自己回顧を交えて書くことになるが、麻雀の上達においてはここを見落としている人がもしかしたら一番多いのではないか、と私は考えている。麻雀は多くのボードゲームの例に漏れず、頭を悩ませる選択を強いる場面が数多くある。どちらのターツを残すか、何の手役に寄せるか、守備駒を残すか、後手を踏んで押すか引くか。先手を取って立直を打つか打たないか。そして多くのプレイヤーはこう考えるのだ。「強者はこんな場面で何を選択するのだろうか?」そして選択の根拠などをSNSで問いかけ、回答をもらってそれを読んで自分の糧にする。
あるべき研鑽の形ではないか、と思う人は多いだろう。実際、①②で挙げたようなそもそもの「教えること」の悪循環からは脱却できているし、実力の向上を期したアクションとしては決して悪影響があるものではないと思う。

しかし、思いのほかこうしたアクションを続けてもなかなか地力が伸びない人は多いのではないだろうか。何を隠そう私もその一人で、実はこの問題は根が深い。自分なりに頭を使って考えても悩むような場面は、大抵の場合上級者でも意見が分かれたりする。もちろんスタイル差などが出る場面が多いから、という理由もあるが、これは裏を返せば「実力差が出ない場面」と言い換えることも出来る。要は、研鑽のポイントがズレていることが多々あるのだ。

ここに気付けぬまま若い時の自分は難解な何切るばかりを解き、さっぱり上達しないまま「ついてないわー」とボヤくような生活を2年近く過ごしていた。意識が変わったのは縁あって麻雀の師と呼ぶ人と出会い、私から依頼して後ろ見で打牌を見てもらう機会が出来てからだった。私の師は言葉を濁して書くと社会的に終わっているタイプの人間で、ちょっとnoteにバックグラウンドが書けないくらいなのだが(念のため言っておくといわゆる反社ではないのでそこだけは名誉のために記載しておく)、麻雀の腕は確かであり、歯に衣着せぬ物言いも相まって私の足りていない部分にクリティカルにマッチする人材だった。

後ろ見が終わって場面について話すと、まず私の意見を聞いて来るのだが、悩んだ場面を伝えると「うーん、全部微妙」と答える。「まあ、なんでもいいんじゃない?」とやる気が無さそうに言った後に、自分が気になったところを言ってくる。最序盤~4打目くらいの選択と後手を踏んだ場面についての話が多かった。彼は「大損」という言葉を使うのが好きで、「〇〇と××と△△が大損、後は微妙」で終わりである。理由は自分で考えろ、と言わんばかりだが、これは要約すると「強い打ち手でも意見が分かれそうなポイントは一旦置いといて、強者100人が100人共同じ選択をする場面でお前だけ違う選択したポイントだけ抜粋して伝えておく」という、社会性が欠落した人間なりの優しさのこもったコミュニケーションだったのだ。
彼に教わるようになってからは本当に絵に描いたようにみるみる成績が良くなった。語彙が少ない分統計も取りやすい。1半荘でプレイヤーは約150打牌を行う計算になるが、最初は1半荘で何度も言われていた「大損」が3半荘に1回くらいまで減った頃に、「もういいんじゃない?」と言われ、僅か数か月で私たちの師弟関係は終わった。

この方式は、ネット麻雀が無い時代であったことを鑑みれば非常にありがたい経験だった。本人の膨大な時間を割かせてしまったことに対して礼を言えていなかったこともあり、小さなカップ戦で優勝した時の宴席に呼んだことがあるのだが、そこで言われた話が今でも印象に残っている。
「多分、俺の方が楽しかった」
相変わらず語彙は壊滅的なのでディティールはこっちで読み取らなければいけないのだが、酒席で饒舌だったことを考慮しても、これはきっと本音でそう言ってたんだろうなと今なら分かる。
人に物を教えることで、自分の思考が体系化、定量化されていく感覚は本当に楽しい。自分の感覚を言語化しておくことで、自分がうまく打てていないな、と漠然と感じた時に参照するライブラリにもなってくれる。人に何かを教える行為は、それ自体が教える側にとっても大きな価値のあるものなのだ。

さて、そろそろ総括としてタイトル回収に入ろうと思うが、先日稚児さんが楽屋裏で珍しく言葉選びに悩む場面があった。文脈としては「チームを強くするために自分をうまく利用してくれ」という気持ちをどう表現しようか、という迷いだったと思うのだが(ここは私の個人的推測です)、微妙な語彙選択に、稚児さんが積んできた経験値の重さと思慮の深さ故の伝え方の葛藤が見て取れるな、と思って感心してしまった。
「そんなものそのままストレートに言えばいいじゃないか」という意見もあるだろうが、そう簡単な話ではないのだ。①~③で過剰書きした、特に①と②に関しての失敗例をどれだけ見てるかで、恐らく心理的なハードルが変わってくる。

「麻雀うまくなりたいです」

という何気ない一文は、実は人によって全然意味合いというか、強度が違っている。「うまくはなりたいけど打牌選択を訂正されるのは圧迫的でちょっと嫌だな」と感じる人もいれば、「『微妙』と『大損』しか語彙が無くてもいいから、とにかく損得はっきり言ってもらって最短ルートで強くなりたい」と思うタイプもいる。良し悪しではなくて、これは実際に各々の感覚の中にある差異なので、存在して然るべきものだ。

ここの意志の強度と、教えたい人の感情でミスマッチが起きると、あまり良いことが起きない。教えられてる側が辞めたくなったり、教えてる側は「響いてない」と感じたりする要因になるのだ。推し量るに、そんな経験や失敗例をたくさん見て来た上で、稚児さんはとても丁寧に、そして分かりやすく自分のスタンスとこの先の展望の話をしてくれた。チーム最年少(※1)の22歳(※2)にして、この配慮の深さたるや流石である。

とまあ、冗談は置いといて本論に戻るが、「麻雀の上達」という一見シンプルに見える命題を巡って、意外にも人と人のミスマッチがこんなにたくさん起き得るんだよ、という話が主旨である。これを回避するための方法は既に述べた限りだが、稚児さんがライフワークのようにやっている牌譜検討は綺麗に全ての問題を解決しているな、と個人的には思っていて、①相手のレベルに合わせて説明を入れるポイントを取捨しているし、②相手から問われない限りは当然他人の牌譜に口出ししないし、③全場面見るので、重視するべきポイントがズレることが無い、という傍から見ていても良く出来たスタイルだなと感じる。
なんだかステマっぽくなってしまったが、牌譜を丸ごと見てもらうのは、「見てもらう想定」で打つだけでも良い経験になるし、上達を望む人たちにはオススメだ。
逆に、そこまで自信が無い人でも、一打一打に説明を付けて選択を入れるのは思考の整理に非常に役立つので、ちゃんと合意を取った上で誰かの牌譜を検討してみたり、逆に完全に自分より実力が上の人の牌譜を検討するという荒業も有効だったりする。
今はストレスの無い形で習熟していけるようなインフラが整っていることもあるので、各々がより自分にとって良いスタイルを選択して、楽しく上達していくことを何よりも望んでいる。

というわけで、意外(?)にも楽屋裏は真面目なるなすぺでした。次回があるかわからないけど次回もご期待ください。


※1:ゆきさんが突然大振りして「18歳です!」みたいな設定をブチ上げる可能性も無くは無いので、現段階で年齢を公称しているメンバーに限る。

※2:自己申告による。マリカーはスーファミ、ぷよぷよは初代から。


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