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コロナ時代の愛 2020年4月26日(日)

とりあえずできる限りの頻度で机に向かって文章を捻り出してみようと思った。

というのも、わたしは時に決然と自分の殻に閉じこもることがあるからだ。今がそれだ。どうも、隠居、的な心境になっているらしい。もともと隠居願望があるし、中学の時から竹林の賢人に憧れているから、深層心理が、この機会を格好の隠居フィジビリ機会だと判断したようだ。

でも実際のところ、別にまだ全然賢人じゃないから竹林に隠居するのは早いし、話し相手もいない中、自分の考えをまとめる機会も減ってしまっているので、こうしてここに何か書き残しておくことに、多少意味はあるかなと思って、書いてみることにした。34歳東京都在住独身会社員女性の(仮)隠居日記である。タイトルはガルシア・マルケス『コレラ時代の愛』のもじりだが、特に愛に関する内容を予定しているわけではない。

そもそも、わたしは、自分の価値観というものが、自分の生き方の、良くも悪くも重い「錨」になっている人間だ。自分の価値観という磁場のまわりを、惑星のように、等距離でずっと回っている感じ。その中心軸たる価値観自体は、外からの影響をけっこう素直に受けるのだけど、わたしという人物が、ぴょんぴょんその価値観の輪から飛び出るということが多くない。

そんなわたしがこういう時どうなるかというと、究極の「人は人」。

もともと薄いマスへの興味が極端に薄れ、マスメディアの報道なんて一切気にしなくなる。ベンチマークしている何人かの専門家の発信と、NHKと東京都の集計と、当社役員による有難い毎日の情報サマリだけを情報源と決め、それ以外は摂取していない。その専門家のツイートにどんなリプがついているか、どのワードがトレンド入りしているか、そういうマスの動向に対して、道端に落ちているうんこ以下の興味しか払わなくなる。

週に1回ほど、健康のために散歩を兼ねて買い物に出るのだが、あまりにも多くの人が往来していてびっくりしたりはする。でもまあ、それぞれの価値観と責任においてやっているのだろうから、とやかく思うのはやめよう、と思う。ただスーパーは結構怖い。朝イチで行って、人が近づいてくるとギョッとしたように避けながら買い物をしたりしていて、自分でもなんだかなあと思ったりしている。無頓着に距離を詰めてくる人をやり過ごす時、そりゃちょっとは「なんで?」って思うけど、それもできるだけLet it go.(アナ雪は見ていない)人の行動をとやかく思っていたら、こういう時、不幸にしかならない。

そんなわけで、隠居風味が強まるばかりのこの1ヶ月。

加えて、わたしは未来のことを考えるのが得意ではない。

こういう事態に陥ると、わたしがいるようなビジネス界隈の人たちはみんな競って未来予想、近い将来の予測をし始めるし、そういう予想や予測に群がり始める。ものすごく斜に構えた嫌な感じの感想をいうと、「ホワイトカラーのイキった連中ってこういう時概ね暇になって、自分の生産性が下がる・自分の社会的影響力が下がる気がして不安になって、意味のありそうな特に今必要のないことを言いたがる」って感じ。なので、News Picksとかも全然開かない。こんな時に「広告業界の役割はどう変わるか」とかさ、大事?ねえ暇なの?あ、暇なのか。まあな。広告、一大産業だからね。資本主義のナンバー2くらいの飼い犬だしね。かく言うわたしも、「人の人生の大きな決断を応援する」テイで高額消費を促進するような会社にいますけどもね。こうやって「ホワイトカラーのミーハー知識人気取りたちが未来予想してやがるぜ」とかって泰然としていられるのもその会社の絶えることのないお給料のおかげですけれどもね。

そんなわけでそう言う情報に対しても、アンテナを取り外した。

疲れるんだもん。ろくろ回すネット界隈の人たちのドヤ顔見るの。

それにしても、未来、または近い将来がどうなるかなんて、考えること自体が無駄な世界に突入してしまったみたいだ。いや、シナリオをいくつか想定しておくことは大切だし、慎重なわたしとしてはぜひそうしたいけれども、そのシナリオが全部外れる前提で動くしかなくなる世の中の到来だ。

根本的に、わたしたちが、人生や、この世界や、地球を眺める眺め方が変わってしまうとしたら、それはどういうふうになんだろう。

そういう、抽象度の高い話としてではなく、個別具体的な変化・変更の集積として、結果的に大きな価値観の変化のうねりになるのだろうか。

一番は、「人と会う」ということの価値の見直しだろうな。

会う必要がないものはどんどん会わなくなって「機能」がそれを代替する、一方、それでも「会いたい」という「感情」は「機能」では決して代替できないことが明らかになって、数十年先の未来でもわたしたちはあいも変わらず人に「会って」いる、のだろうということ。

なんだ。冒頭、隠居老人みたいな超然としたこと言っていたのに「人に会いたい」だとよ。

いや、そんなに会いたいわけではないんだけど、「そんなに人に会いたいわけではない」ってことって、「普段人に会っている」から成立することだよね。って、生まれて初めて思った。わたしが孤独を愛しているのは、わたしが普段、そこまで孤独じゃないからかもしれない。

どんなに人に囲まれていても、孤独なものは孤独、人間は全員が孤独という地平に立っている。

って信じてきたけど、案外、普段の生活の中で物理的に人に会い話すということだけで、わたしたちは、孤独を軽減させていたのかもしれない。

不思議だ。

こんな着地になるとは想定していなかったぞ。

意外にもヒューマンでエモーショナルな結末となった。

昨日、ジム・ジャームッシュの『パターソン』なんか見たからかしら。

さあ、今日も映画でも観て、好きな人にLINEしよう。

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33歳、新卒入社11年目にして、終わらない「自分探し」をする皮肉屋の冷笑家です。自嘲気味ながらも、墓場に自分を探しに行く、そのグダグダな軌…

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