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EVEN, if... <序>②

さて、ここまでたらたらと文章を連ねてきたが、いよいよ私も記憶が混乱してきたので、今一度整理しようと思う。
 まず一つ目、「彼」。彼は私が十歳のころから知っている幼馴染だ。まるで兄弟のような存在で、私の一部であるように思えるほど、彼は私を理解し、私は彼を理解していた。知り合った当時から大人びていて、掴みどころのない、どこか絢爛としている少年だった。琥珀色の瞳の奥には、煌々と燃える「彼女」への愛と、深い深い闇が潜んでいる。五年間の呪縛、束縛の末に、十一月のはじめに自殺を遂げた。
 二つ目、「私」。いま、ここで文書を、彼の伝記を書いている。彼を一番よく知る男で、彼の一番の親友だった。人付き合いは大してなく、パッとしない性格の人間だ。趣味は読書、映画鑑賞。彼とはよく一緒にジンジャーエールを飲んでいた。…自己紹介じみた文章になってしまったな。
 そして最後、「彼女」。彼が追い求めた人物。彼が心の底から愛し、求め、敬い、そして跪いた存在。学校で一番の美貌を誇り(彼が言うにはそうらしい)、常に周りに人間がいる、人付き合いの上手な人だ。だが一方で、周りに常に人間がいることや、話しかけがたい雰囲気、いつも周りを警戒しているような立ち振る舞いから、彼からは〝難攻不落の絶対要塞〟や、〝無慈悲な女王〟と呼ばれている。
 彼を死に追いやったのは彼女ではない。彼が作り上げた、彼女への畏怖の念や彼の心の混乱、夢を否定する現実が彼に科した呪縛だ。彼は手記の中で、「彼女」を〝心の底から愛した人〟と呼んだ。

 彼は彼女への畏怖の念を、彼女の姿をした恐怖を、{Even}と呼んだ。

 Evenは彼がつけた名前で、彼女の名前になぞらえて、或いは彼女の雰囲気や単語の発音の魅力によって決定したという風に私は解釈している。発音に惹かれたのであれば、その点はまだ中学生だったのだろう。彼はこの名前について何も教えてくれなかった。理由も、何もかも。ある日突然、彼は彼女のことを、正確には彼女の姿をした毒をそう呼ぶようにしたのだ。いつの間にか私たちもそう呼ぶようになっていた。
 Evenと彼女については、彼との会話やその記憶からある程度推測して彼女たちを定義しなければならないのだが、私がこの文書を書き、彼の遺した手記を読んだうえで解釈すると、「彼女」とは、小学五年生と中学一年生の時の彼女を指し、「Even」はその他小学六年生、中学二年生、三年生の時の彼女を指している。前者、「彼女」が登場する二つの時期に、彼と彼女は同じクラスだった。いわば、日常的な接触が可能、或いはある状態で、二人の距離感としては比較的近い部類に入る。一方の後者は、同じクラスではなく、接触機会すらない状況であった。このことから考えられるのは彼は話さなくなったが故に彼女のことが分からなくなったという可能性だ。詳しく言い換えると、彼女が自分のことをどう思っているのか、話しかけたら彼女はどのような反応をするのかが分からなくなってしまったのだろう。人は未知を恐れる。こうして「Even」とは、彼にとって未知なる存在であり、それからくる恐怖を指しているのだと私は解釈した。
 彼の脳髄にまで入り込み蝕んだ呪いというのは、彼女を求め、彼女と共に居たいという願望、そして未知からくる恐怖、夢を否定する現実とがぶつかり合い、せめぎ合うジレンマによってできた、彼の心の混乱でもあった。彼の中には二人の彼がいた、と考えるとこの話は分かりやすい。一人は、非常に論理的、現実主義者で、もう一人は願望を言い続ける、彼が〝大人〟を振る舞うために封じ込めた、幼いまま成長しなかった彼だ。幼い彼が言う。「僕は彼女と付き合いたいんだ。彼女のことをこんなにも愛している。彼女と話せば、この心内をすべて伝えれば、彼女だってわかってくれるはず」と。現実主義者の彼が言う。「そんな馬鹿げた話、聞いているだけで恥ずかしい。所詮ただの夢物語、負け犬の遠吠えとやらだ。いいか、よく聞け。そんなことはありえない。彼女の眼中に俺たちはいないんだ。ただの路傍の人。彼女に話しかける資格も、勇気も、何もないくせに偉そうなことをいうんじゃない」と。
 彼の言う〝資格〟や〝ありえない〟という考え、これらの意見、いわば「被害妄想と思い込み」が彼の神経を削った。幼い彼はそれらが全くの思い込みであるとわかっている。現実主義者の彼も、それが思い込みであるとわかっていながら、しかしそれらは本当であると自分に言い聞かせている。このなんとも言えない違和感、歯痒さ、そうしてできたのが、彼を死に追いやった心の混乱の正体だ。幼い彼は「彼女」を愛し続けた。現実を受け入れた彼は「Even」を恐れた。彼は死によって二つの魂を解放したのかもしれない。いずれにせよ、今となってはもう分からないことだらけなのだが。
 彼が愛した「彼女」と、彼が恐れた「Even」。幼い彼は希望を信じ、現実を見た彼はそれを否定する。様々な存在がお互いを否定し、肯定し、愛し、恐れる。途方もない夢と、目の前に広がる現実。複雑に入り組んだ実像と虚像の狭間で、彼の精神は徐々に狂っていった。
 本当に彼は子供だったのだろうか。あまりにも早熟しすぎていたのではなかろうか。まだ十五年程度しか生きていないのに彼は恋しいが故にもがき苦しみ、挙句の果てに自殺をするとは、少なくとも私の知る一般的な中学生の行動ではない。そんなことが起こるのは小説の中、ましては大抵十八を超えた無鉄砲な若者や、様々なことを経験してきた大人の人生の試練としてだけだ。まだ中学三年生の少年に科せられた苦悩にしてはあまりにも荷が重すぎるのではなかろうか。彼の手記にあるように、神様というものは非常に意地が悪いのかもしれない。下界の人間のことなど気にも留めずだらだらとその日その日を過ごしているだけのくせに、暇になったら適当な人間の人生を滅茶苦茶にし、その絶望っぷりや堕落していく様を笑いながら見ている。こんな屑に人生を操られていると思うと、腹が立ってくる。
 彼は神の玩具で、現実によってその人生を蔑まれた。夢を見ることも、希望を信じることも許されず、そんな苦悩の中で苦しんでいても彼女は振り向かず、彼はただ眺めているだけだった。幼い自分と、現実を受け入れた自分と、自らの作り出した虚像であるEvenと共に心の奥底にある薄暗く小さい部屋の中に閉じこもり、激しくお互いを罵り合った。その部屋にある嵌め殺しの窓を通して、あの日のような晴れた空の下、幸せそうに過ごしている二人を、彼の追った理想を、彼は羨ましそうに見ていたのだった。

 君が死んでから数週間たったいま、受験勉強に明け暮れた生徒は君の死など忘れてしまっている。君の訃報は学校を騒がせたが、それも数日で終わった。彼女に関しては、所詮他人の死、まるで関係の無いように日常を過ごしている。君なら、彼女が自分自身を責めたりしていなくてよかった、と言うかもしれない。だが、私は君の一番の親友として、この状況にはいささか腹が立った。これは本当に君の求めた答えなのか?彼女が何も知らず過ごす一日の内に、君は何度彼女のことを想い、その度に自己嫌悪に苛まれた?こんなことは絶対におかしい。君が彼女を愛したように、彼女もまた君を想うべきなのではないのか。このままでは、愛する人をひたすらに追いかけ、毎週毎週パーティを開いた若き富豪の葬式と変わらないじゃないか。僕は親友として、君にそんな人生の終わり方をしてほしくなかった。…いや、それは少し傲慢な考えかもしれない。夢も希望もない世界で生き長らえたって、ただ苦しいだけだからね。
 だったら、何が正解だったんだろう?
 君はただただ彼女の幸せを願っていたな。彼女が幸せであることが君の夢ならば、何も知らず一日を過ごす彼女の心の平和が希望だったのなら、君は十分頑張ったと思う。
 君の死によって、今日も彼女は夢と希望に包まれている。
 私は、君の冥福を祈るとともに、現実が彼女を次の被害者に選ばないことを願っている。
 さようなら、親友。安らかに眠れ。

 君と、君の生きた証と、その人生の記録、そしてその身に宿した執念と愛情と、君を堕落させた呪いを、今からここに書き記す。
 それが、私にできることだ。


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