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「物価と賃金の循環構造」no.2

 岸田文雄首相が経済3団体合同の新年祝賀会で、次のように挨拶された。「インフレ率を超える賃上げの実現をお願いしたい」。首相が経済界に直接にこのような基準を示した賃上げ要請をするのは異例のことだろうと思う。     昨年(2021年)、安倍政権下でも官製春闘と言われる賃上げ要請をすでに行っていた。今回は、明確に、賃上げ、つまり名目賃金の引き上げについて、その基準を明示して要請したところに危機感が現れている。こうした政府からの民間企業要請に対しては、一定の批判があることも周知のことである。今回も、首相の前のめりだとなかなか世論は厳しい。企業が自発的に賃上げを行う環境をつくるべきだとか。筆者は、首相のこの表明については、異次元の子ども政策とともに、まずは素直に受け止める評価をしたい。首相の言われた真意は、何としても実質賃金のこれ以上の下落を食い止めなければ日本経済のさらなる浮揚はありえないという危機感であろう。日本経済の長期停滞の宿痾の真因がこれだという思いがその表明の淵源にある。首相の新自由主義的経済運営からの脱却という灯火を今一度思い出してもらいたい。さらに深読みすれば、この間の底堅い企業業績からみても、さらに今後の経済推移、とりわけインフレについての企業の予想からみても、その環境は十分に整っていると判断されての発言だと思う。前のめり発言は、全く的を射たものではないと考える。敢えて言えば、内憂外患にあられるが、首相の力量、政治的判断力を決して過小評価するべきではない(広島での時宜にかなったサミット開催などをみれば明らかである)。
 2021年以降の賃金の推移(月次データ)をラフに俯瞰しておきたい。2021年前半は、官製春闘の効果もあって、概ね名目賃金の上昇率はCPIの上昇率を上回っている。実質賃金の上昇率が名目賃金の上昇率を上回ったのは、CPIの変化率がマイナスであったからである。21年後半から、CPIの上昇率がプラスに転じ名目賃金の伸び率が低迷するにつれ実質賃金の伸び率が名目賃金の伸び率を下回るようになる。21年第4四半期には、実質賃金の伸び率はマイナスに転じる。21年度全体のこの推移が、官製春闘の効果は一時的で成功しなかったという評価をもたらしたと思う。このような結果論は、清算主義的で事実を歪める可能性がある。2022年度は、周知のように、CPIの加速的上昇が進行し、名目賃金の伸び率は高まるが、実質賃金率の伸び率はマイナスに転じ、大幅に下落していく。
 現況からして、インフレ率を上回る名目賃金の伸びを要請するというものであるが、これでは実質賃金の伸び率をどの程度にするのか、なお明確ではない。低成長下なのであくまで相対的ではあるが、インフレがこの程度加速的に進行すれば、そしてその予想が完全予見に近い状態では、実質賃金の伸びをプラスに転じさせるという表明と実現だけで、十分であろうか。これが問題なのである。2021年度の前半の実質賃金の伸び率で山は3.5%程度だろう。果たして、実質賃金の伸びをプラスに転じさせる程度で、春からの商品価格の値上げラッシュが予定され、インフレ予想がほぼ完全予見状態の中で、家計の消費需要を高めることができるであろうか。実質賃金率の伸び率をどの程度にするかの誘導目標が示されなければならないのではないだろうか。
 筆者はこの間、このブログ記事、「成長と分配」を連載してきた。それは、岸田政権が経済目標とする成長と分配の好循環を分析することを目的としている。今後も新たな視点からこの連載を持続させなければならない経済情勢にあると判断している。これまでの重要な結論は、ケインズ派のマクロモデルを前提とする限り、実質賃金率の伸び率が労働生産性の上昇率を上回り、労働分配率が上がるだけでは、持続的な成長と分配の好循環は生まれない。消費性向が相対的に高水準でなければならない。相対的にというのは、消費性向が資本蓄積率の利潤率感応性を上回るという経済構造を意味する。
日本経済でもこのような経済構造を達成することは十分に可能である。いわば、時代の風を吹かせればよい。消費性向には心理的要因も大いに影響する。
 一つの実質賃金率の誘導目標は労働生産性の伸び率であろう。いわゆる生産性ガイドラインである。これは労働分配率の定常状態を意味する。この状態ではサスティナブルな好循環を生み出すことは可能である。この誘導目標を暫定的な提案としてはどうだろうか。実質賃金率の一定値を維持する純均衡状態では、労働生産性の伸び率だけ労働分配率は低下し、成長と分配の好循環は実現しない。
 巨大な現存生産供給能力を有するにもかかわらず需要ニューフロンティアが希少になりつつある現代資本主義先進国が設備投資主導の経済成長を歩むとは考えられない。かと言って生産労働人口の上昇率が抑えられる経済構造で消費主導の高い経済成長が予想されるとも考えられない。この矛盾に応えていくためには、新しい効率的な技術に実装された資本蓄積で資本生産性を引き上げていくというサプライサイドの構造改革と将来の生産労働人口のプラス成長率がゼロで定常状態であっても一人当たりの労働者の能力水準が高まる労働力増大的な技術進歩によって支えられる経済構造への改革が必須である。これが資本効率と労働能力増大による人間的余裕の増大を通じた消費性向を引き上げる道である。
 このように賃金論だけで日本経済の好循環をもたらす処方箋を見出せないことは明らかである。権威主義国家だけではなく民主主義国家でも国家資本主義は必須であ。このように言うと、直ぐに大きな政府小さな政府論争が再燃するが、国家資本主義は必ずしも大きな政府を意味しない。国家の役割が民の肩代わりではない。国家事業自体が民間資本との共同であり、公益性と効率性の両立が必須である。民間資本も公益性重視が時代の奔流である。
 今日の経済安定化政策では、需要サイドのストレスが過大である。政策自体が不安定化させるという批判も当たっている。日本経済の平成バブル崩壊後の不安定化やリーマンショック不況はその歴史的経済遺産である。筆者は経済安定化政策はサプライサイドも担うべきであると考える。選択肢として排除するべきではないし、現に実施されている。労働者に対してリスキリング、リカレントを積極的に促していく政策などは、弾力性のある労働市場構築というサプライサイドを意識した政策である。この効果実現をスピードアップすることは十分に可能である。今日では金融財政政策がサプライサイドに影響を及ぼすことを通じて経済安定化に寄与している。成長支援融資やグリーンDXに対する融資などはその典型である。財政政策はもっと大規模にサプライサイドに影響を及ぼそうとしている。今後、賃金と物価の安定的な好循環を生み出すような政策上のアイデアが練られなければならないであろう。
 



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