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これが大学なんだ、というダイアローグ。好きだから学ぶ。

桜が満開になりそうで、入学時期にふさわしい。美しいな。

僕はこれまでに、学生をサポートする助手や専門職員的な立場で大学に勤めていたことがあった。
今は、非常勤講師や実習等での特別講師で教える機会があり、その専門は企画デザイン、ソーシャルデザイン、それらのフィールドワークだ。

専任でもなければ、公的な研究でもないということは、大学運営や大学教育においての「現場にいる」と語れる立場にはないのだけど、大学というところは、教育現場としても職場としても「いい場所」だと僕は思う。他業種とまた違うややこしさもあるけれど、やはり良い場所だ、と思う。

先日、一般の場で僕がやっている対話のワークショップのなかで、大学の本質は○○だ、という話になった。
○○は、ひとことでまとめられないが、つまりその場で行われた、対話であり、ダイアローグであり、「お互いの価値観を共有し、意見を交換し、知的好奇心によってコミュニケーションして、自他を深めるようなこと」だ。

それが「大学」だ、と、そこにいるみんなが共感していて、それが自分たちに必要なんだ、と思いを話し合った。
その場には、大学を経験した人も経験していない人もいたのだけど、でも「大学とはこうである」という共有ができていた。

ファシリテーションをしている僕自身が「大学」の価値を、そういうもの(友達がいて、知的欲求が満たされる場所)思っていて、対話の場づくりをしているのだから、みんな僕に影響されているのかもしれない。

でも、世の中に様々な教育機関があるのにも関わらず、教育レベルや、カテゴリや、偏差値に関係なく、大学の本質とは「対話」や「知的好奇心」や「コミュニケーション」「お互いを深めること」だと、みんなが考えた。

それはつまり、
そこがシンプルに「大学に期待されていること」なのだ、と思う。そして、大学が教育文化の中でなりたった必要性そのものであるとも思う。

別にそれは、実際の「大学」という場所で行われなくてもいいと思う。地域のカフェや公民館にそういった場があれば、なおのこと嬉しい。「大学」でなくても「大学の場」はつくれる。そこでは何が生まれるのか。
ぼくは、そこには、学ぶことの楽しみがあり、楽しんで学ぶことによって、自分が見えてくる。学ぶということは、自己同一性を高め、自分を癒やしてくれるのだと思う。

縁があって自分の講義を履修してくれる学生には「学ぶことの楽しさ」を知ってほしい。15回のうち1回でも、90分のうち1フレーズでも「学びを得て楽しい」と感じてもらうことが僕の目標だ。

政策が掲げる「自分で考えて行動し、問題発見、課題解決ができる人材」は、好奇心や関心をもつちからがあってこそ、できることだ。

自分で考えられない学生がふえた、とか、新入社員がふえたとか、若者がふえたとか。それは、考えられないのではなくて、面白いと思えないからだ。

ものも情報も多い中では、好奇心のセンサーが鈍くなってしまう。自分の好きなことをみつけるのも、一苦労する時代だということなんだろう。

ちいさなこどものころ、誰しも、すべてのことが学びだったはずなんだ。学びに感動できたことを、思い出すことが大切だと思う。

こどものように、学ぼう。
学問は好きになるものではなく、好きだから学びたい、それが学問になるんだ。

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