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「家族が嫌いなの?」

「無条件で愛してくれる存在(たとえば家族とか)以外に抱きしめてもらいたいと思うときがある」

というツイートが目に入ったとき、一番はじめに思ったのは、「すごい」だった。
すごい。この人にとって家族は「無条件で愛してくれる存在」なのか。
それってものすごくすごいことなんだろうな。

これは自慢だけれど、わたしはまぁそこそこ家庭環境の良い方だと思う。
一人部屋も貰ったし、私立の学校にだって通った。習い事もそれなりに色々させられた。暴力らしい暴力を振るわれたこともない(ふざけた父に模造刀を突きつけられた事はある)(いまだに忘れられないくらいめちゃくちゃ怖かった)。まぁ、大切にしてもらっていたよな、と思う。思うようにしている。
でも、今をもって「無条件に愛してくれる」とは、どうしても断言できない。だってわからないからだ。わたしと家族は家族だけれど、家族という括りでくくられただけの別個人だ。
わたしには生まれた時から父と母の娘で、祖父母の孫で、姉の妹という役割が与えられていて、またわたしが生まれた瞬間に彼らにも「わたしの父母で、祖父母で、姉である」という役割が与えられた。でも、ただそれだけだ。それは別に、彼らがわたしを愛す絶対の理由にはならない、と思う。(同時に、わたしにもその義務が発生するわけじゃない。いやまぁ、ふつうに好きだけど)

と、そこまでかんがえて、ああここが違いか、と気づいた。
この人の所属する「家族」は、それを条件にしているんだろう。
「家族であること」が「相手を愛すること」の理由になるタイプのグループなのだ。
やっぱりすごいな、と思う。やっかみとか嫌味のつもりはない。まじでめちゃくちゃすごいと思う。
この「すごい」は、例えばティルダ•スウィントンの寝姿が美術館で展示された
とかそういう話をきいたときの「すごいな」に近い。すごいな、そんなことがあるんだ。美術品みたいなものだ。しかも遠く、知らない街の美術館に展示されている美術品。きっと間近で鑑賞することも一生ないんだろうな、と小さなスマフォの画面を見ながら思う。

家族が嫌いなの、と大学時代に聞かれたことがある。
大学進学っていうのは一つの人生の区切りだ。これを機に実家を『脱出』してきた同級生は珍しくはなかった。「うちの家族クソだから」「ほんと出てこれて清々した」「もう絶対に帰りたくない」授業の合間にわらいながらそんなことを話してくれる子たちが居た。
その子たちの全員が全員、いわゆる「本当に家庭環境に難のある学生」だったのかはちょっとわからない。思春期が終わったばかりで折り合いがつかないだけだったり、そんな周りの雰囲気に流されて悪態をついていただけの子もいただろうとは思う。わたしはどちらかといえば後者に近かった。
わたしが学生時代に仲良くしていた子は、そんな中でも臆面なく「家族がだいすき」と言い切っていた。パパもママもだいすき。お姉ちゃんともずっとなかよしだから、お姉ちゃんが結婚しても毎日会いたい。別にニコニコしているわけじゃなくて、ほんとうに当然みたいにそんなことを言う彼女を、たぶんわたしは宇宙人を見るみたいな目で見ていた。うち、パパとママもちょーなかいいもん。昨日なんてパパがママにあーんってやってて、ちょーーかわいかった。
その時もやっぱりわたしは「すごいな」って言ったんだろう。
それで、うちなんか、と枕詞を添えて自分が実家にかえったときの様子を語ったりなんかしたのだ。全然全員バラバラだよ。全員揃って晩御飯なんてとんとやってないよ、すごいな。
それで、家族が嫌いなの、と聞かれて、口籠もった。

別に家族のことは嫌いじゃない。二十数年も付き合ってこれば、あんなことこんなことあったでしょうってな具合で恨みやつらみはいくつもある。正直言えばわたしはできることならこの先の一生、もう絶対に実家では暮らしたくないと思っているし、そういうことを言うと大概、ああ家族が嫌いなんだなと受け止められるのだけれど、本当の本当に、嫌いではないのだ。
ただすきでもない。
手放しで好きだの愛してるだの言うには、あんまりにも難しい。ただ家族で、二十年ほど一緒に暮らした他人で、これからも関わらざるをえない人たち。大学時代に数年間一緒に居ただけの友人と話す「家族が好きか嫌いか」なんて話題さえ、わたしはあの人たちとしたことがないのだ。
でも、これでいい、とも思っている。
他のメンバーがわたしたち家族というグループの現状をどう考えているのか、もちろん他人であるわたしは知らないし、できれば関与したくないと思っている。わたしたちはそういう集団で、そういう集団であること以外のありかたを知らない。わたしがうまれて二十数年、うまれる前から家族だった彼らのことを考えればもっと長く、ずっとずっとそうあってきたのだ。

オーケー、とらわれずにいこうぜ。

回る寿司を食べに行きます