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ありがとうが奪ったもの

こんにちは、夜枕ギリーです。全体公開なので先に誤解されないように言うと、今日の日記は拗らせエンタメです。


クリックして消さないと本文が読めない広告が表示されることがありますが、先日とあるサイトでスキップできない10秒ほどの動画広告が再生されました。再生が終わりクリックで広告を閉じると、ページ下部に「ありがとうございました」という文言が控えめにポップアップ。

広告を見てくれてありがとう、広告が終わるまで待ってくれてありがとう。そういう意味だと思います。

いや、よくそんなことが言える。決して自主的ではない、事実上こちらに不便や手間を強制しておいて、従わせた者へのありがとうとは恐れ入る。感謝の言葉ってコミュニケーションをスムーズにする「使い得」な面があると思ってましたが、例外もあるということについて考えていきたい。


私は広告を見せられること自体は構わないというか、サイトの収益(存続)に直結するものなので、詐欺などでなければ否定するつもりもないし、むしろ広告ブロッカーを入れることに抵抗を感じるタイプです。広告の出し過ぎで離脱率が上がったり、本来のコンテンツに影響が出たりするのはバランスの問題なのでそこは運営の自由だと思うし。

ただ強制するのであれば堂々としていて欲しい。不遜な態度であって欲しい。強制する側という、その場の権力者であって欲しい。そこに「ありがとう」というコミュニケーションの文言が登場すると、我々は強制されたのではなく、同意であったり協力的な態度によって広告を見たということになってしまう。そんな関係性を押し付けるのは、広告を強制的に見せる以上に身勝手で自分本位な態度ではないだろうか。

つまりありがとうという言葉は自発的な感謝の言葉でありつつも、相手の行為や態度に対して善の属性を付与するという効果がある。

これは先日のTwitterでのつぶやきですが、構造としてはこれと似ている。悪いと思っていないのにごめんなさいと言わされる、感謝していないのにありがとうを強制される。その場は丸く収まるけど、感情や属性を押し付けられたことや、本当の気持ちを無かったことにされた抑圧へのしこりみたいなものが残り続ける。


社会は、特に日本はそれぞれが少しずつの不便や我慢を受け入れることで円滑に回っていると感じるし、なんならそれが成熟した社会だと思うし、私はそこらからはみ出したいわゆる「モラルなき行為」がとても苦手です。なので個々の不便や我慢は尊びたい。

だからこそ、その不便や我慢を薄く包んでいるネガティブな感情を無いことにして欲しくない。そこをポジティブなものだと第三者が決めつけるのは、無邪気で都合のいい塗り替えだし、不便や我慢を強いた罪が軽くなってしまう。「まあまあ、相手さんも気にせんでと言っておりますし……」を自分の妄想で生み出してはいけない。


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