ちょろちょろ読んでいる

自分の考えを整理するために、ひとから教えてもらうことが多い。

たとえばこういうもの。

作者の感覚を正確にうけとめるための、何か便利な道があるというものではありません。作者は作品の中における人物や事件の表現のしかたに、自分の感覚をつぎ込んでいるのですから、作品の表現に耳を澄まして、作品の中からひびいてくるものを感じとるよりほかに方法はありません。

遠藤嘉基・渡辺実 「現代文解釈の基礎」


なににでもお手軽な近道があると思ってはいけない。それを確認した気がする。文章を読んでいくこと。読むことで自分のなかに起こる変化に耳を澄ませること。そういう姿勢をもちなさい、と教えられる気がする。


すなおに読んだあとの印象や感動をそのまますなおにまとめてみるところから、主題の追求は始められるべきだと考えます。

部分部分から全体を総合して振り返ることによって、作品の主題は最も明確に把握されるでしょう。

それを実感として把握することができたとき、人生や社会というものについての考えが、それだけ深まったことになるのだと思います。

遠藤嘉基・渡辺実 「現代文解釈の基礎」


なににせよ、自分が感じたことのメモは大事な素材になる。わたしはいつも具体的なプロット(小説などでいうそれとは違う)をいくつか打って、それを遠くから眺める、というステップをふむ。そうすることで価値の遠近感を意識しながらものごとに接するように心がけてはいる。それが立派にできているかどうか、という話はあるのだが、そこへはあまり突っ込まないでください。
一見なんの関係もないように思えるものであっても、それを紐付けたくなったりする。自分の経験と知識のなかから出てきたものなのだから、そのうち結びつける理由が見つかることもあるだろう。そういう気づきはおもしろい。


身体運動を出来事ではなく行為と認めること自体が、そこに意志の存在を事後的に構成するのだ。言い換えるならば責任が問われる時、時間軸上に置かれた意志なる心理状態とその結果という出来事の関係が問題になるのではない。
我々は常に外界から影響を受けながら判断し行動する。しかし条件の違いによって、自分で決めたと感じる場合もあれば、強制されたと感じる場合もある。主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。

小坂井敏晶 「責任という虚構」


ちょっと目先を変えて、責任の生じるメカニズムについて深く考察した本。いくつも示唆に富む文章が散りばめられている。引用が多く、全てをたどることはできないけれども、自分の中で物事を整理して考えたい時に眺めることがある。責任について、判断について、意志について、自由について。そうであるかもしれない可能性を丁寧につぶしていくことによって結論を導くスタイルは、相手にする対象を捉えづらいときに試したくなる。物事をかんがえるときに、なにをどこまでみて、どういう道筋で考え、ロジックを立てていくのか、気分転換したいとき、目線を変えたいときにこの本を手に取る。



むかしテレビで若年性痴呆症の男性を扱ったドキュメンタリー番組をみて以来、自分の使いこなせる言葉の限界が、自分の実感をもって把握できる世界の限界になる、と理解した。自分の感じていること、思っていることをできるだけ自分の言葉でつかまえられるように、とその番組をみたあとから意識し始めたように記憶している。
まだリモート会議が主流になる前、電話会議において正確に意思疎通するため誤解のないよう言葉を選ぶ苦労があった。それが楽しさに変わった時、日本語が少し身についたのではないか、と感じた。ただ感情を表現するものではなく、思い描いている対象を捕まえてそれをそのまま伝達する道具としての言葉の在り方に気づいた。
その経験から、場面によって情緒を乗せるための言葉の選び方と道具として物事を単純に伝達する言葉の選び方とを使い分けようと、はっきり意識するようになった。他人からみてそれがきちんとできているかどうかは、また別の話ではあるけれど。