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ぶ。画像のとおりである。それこそ、小学生のとき、やりませんでしたか。ぶー・・・。


canvaでやりたい放題である。ええ歳して。


やりたい放題はええのだけれど、こういうことを続けていると、善良な魂に従って行動しておられるnote市民の方々から、わたしの精神年齢および道徳観を疑われかねないのである。それでもやってしまうのは、人の背負った業ゆえであろうか。

そんな言い訳でごまかしてみたところで、何にもならぬのである。ごまかそうとしてごまかし切れていない、それを平気な顔をしておる、どうなっておるのやら。さて、今回は、

ぶ。

ということで、ブリューゲルである。
ピーテル・リューゲル(父)である。
今回はただのメモの域を出ないような気もするが、言い出した以上まとめるのである。書き出して、1か月寝かせた。何かええ味が出てればええのやけど、相変わらずである。版画のことや、いくつもの作品のことには全く触れてない。ひとつひとつの作品に触れ始めると、わけがわからなくなるからであった。まあ、素人である。



*   *   *



ピーテル・ブリューゲルはルネサンス期にベルギーのアントウェルペン(アントワープ)・ブリュッセルを中心に活躍した。いわゆるフランドル画家の立ち位置にいる。

16世紀のアントワープは、国際商業都市として繁栄していた。インドからの香料、南ドイツからの銀、銅、デンマークから馬、フランドルのタピスリー…。そういうものがごった返し、金融業者もいて、そうなると文化の混合・融合が起こるのも必然であった。

この時代の絵画がたくさん残っているということは、それだけ欲しい人がいた、需要があった、ということでもある。友情の交歓として肖像画のやり取りもあった時代。その中で、寓意的風俗画が描かれるようになった。これには、当時流行ったレーデレイケルスカーメル(修辞家集団)の存在があった。それは戯曲、詩、演劇を創作し、コンクールを催す集団であった。

この地にルネサンスと言われる動きとは違ったものが花開いたのにはそれなりの理由があったのである。ブリューゲルが活躍したのはそういう場所、そういう時代。デューラーレオナルド・ダ・ビンチより半世代くらい?あとになる。

このブリューゲルのお師匠さんと言われているヒエロニムス・ボスは、伝わっている生没年からすると、彼らとほぼ同じ時代を生きている。


……ところで、ベルギーのアントワープといえばビールではないか。ベルギーといえばそもそもビールであって今でこそ日本でも地ビールなるものが認知されているけれども、ベルギーにはもう数え切れないほどの醸造所、ビールの種類・個性があって何と言ってもランビック、あれはアントワープではなく醸造所はブリュッセルであったかもしれぬぞ。


脱線してはならぬ。アントワープといえばルーベンスの作品があったり非常に大きな港があったりするのだ。要するに豊かな街なのだよ、本の受け売りだけどね。が、私にとってリアリティのあるのはやっぱりビールなのであった。

私はそうやっていつも話が脱線して戻ってくるまでに一苦労するのですけれど今回は比較的早く戻ってきましたよ。勝手にしなはれ。あははん。



ブリューゲルは、バベルの塔や、雪中の狩人などの作品で有名である。私は昔、その作品群にさしたる感銘も受けなかったのだけれど先日、図書館で図録を見て文章を読んでみて、ああ、また見に行きたいと思った。

非イタリア的であり、寓意の枠の中にそれをはめ込んだ絵画。善悪の寓意を、民族的な要素と合わせて表現したのであった。



ブリューゲルの絵には何が描かれているか。
人間である。
それは、他の画家の作品にももちろん描かれているけれども、彼の描くのは、市井の生活や日常、生命のたくましさ、ひたむきに生きる命そのものであった。

今回私は図書館という場所とはいえ、やっとそれを感じ取ったのである。

作品の情報はまず目に入ってくる。その作品に描かれた人々は何をしているのだろう。詳細に、緻密に描かれた人物たち。彼は、盲目になった者たちの病状まで描き分けるほどの観察眼と絵画技術を持っていた。

多くのものや人々が描き込まれた作品を眺めてみる。視覚から入ってくる情報を解釈すると、やがてそこに登場する人々が動き出し、生活の音が、喋っている声が、耳に聞こえてくる気がしないか。彼は、どんな細部も丁寧に描いた。風景であっても、人物であっても。それが、作品全体の季節感、手触りにつながっている。今の技術をもって細部を拡大したときに、それは感嘆の声とともに認識される。


ベツレヘムの人口調査、婚宴の踊り、イカロスの墜落、その絵を見て、私の五感は、その雰囲気を感じようとする。絵の風景が頭のなかに展開され、自分が入り込んでいって、気温、雑踏、風、におい、会話を感じ取ろうとする。それらの感覚が頭の中で混ざり合って雰囲気を醸成する。

その結果、何も感じない、ということもある。それはそれでいいのだ。同じ景色でも、それを見るタイミングによって心にどう響くかは変わってくるからである。

400年も500年も前の作品であってもそこへ引き込まれる魅力が感じられる。私の感受性が変化したからか成長したからか、以前とは違う見え方になったのだ。



作品に、さまざまな風刺を描いていながらも、彼は人間存在への慈しみを忘れていない。彼は周りから尊敬されるような人格者だった、という逸話もあって、愛をもって人間を観る土台があったのだろう。彼の観察眼の鋭さは、自身がリウマチと胃潰瘍に悩まされたために、我が身の行く末がどうなるかを知るべく他人を観察したことで鍛えられたのだ、という見方もあって、だとするとそれでありながら厭世的なものを表面にあらわさず、作品を仕上げていったことになる。人格者という評価には納得させられるものがある。

その絵画は、価値が高かったことから彼の死後、ハプスブルク家の元に渡ったものがかなりあるようだ。彼の作品がいま、どこにあるかを見れば、欲しかった人が誰なのか辿れることもあるだろう。当時から彼の描く作品には、人を唸らせるだけの説得力があり、人の心を捉える魅力があった証拠である。たとえ平凡な人間を描きそこに皮肉を表現したものであっても、その下地には紛うことなき人間そのものへの愛情が塗り込められていた。

彼は、農民を描いた。ふだんは真剣に作業に取組み、祭りのときは全力で羽目を外す農民たちを、好感とともに描いた。彼は農民画家ではなくて、彼が感じた人間のひたむきさを、結果的に農民を通して表現したのである。


私はどうやら、やっとそこに気づけたようであった。そうなるとまた、本物を見たくなるものである。