人生に文学を|西村賢太

文学はおもしろい。そして大事だ。しかしそのことを理解するにはどんどんいい本を読まなければならない。



ぼくはものすごい自己評価も高いし、自信家でもあるんですけども、そのいずれもほんとに何の根拠もないんですよ。冗談でも何でもなく、なんにも根拠がないんですけれども。皆さんそうだと思うんですよ。

根拠なくても自信満々に、これは面白いから面白いんだよと、勧める。言葉を変えりゃ推しの強さってのか、図々しさですよね、そういうのが人生には必要なんじゃないかなと。

自信に根拠は要りません。

西村賢太


 「皆さんそうだと思うんですよ」と言っていたのはつまり、自己評価が高い人、自信家の人ってその辺にもいるけれども、彼らをつかまえて「その根拠はどこだ」と聞いてみたらきっと「根拠なんて何にもない」と言うだろうさ、ということだろう。
 根拠のないところから出てくる思いを隠さず言うのだから、面白いものは面白いとしか言えない。面白いからしょうがない。彼の言葉を聞いた方は聞いた方で、そりゃそうだよなあ、と言って一緒になって笑ってしまう。



 子どもの頃を思い出すことが増えた。

 どうして何段もある跳び箱が「跳べる」と思ったのか。そんなのに根拠はなかった。自分ができると思ったから。そうして跳べたら「ほら」。跳べなかったら跳べるまでもう一回挑戦して、他人の動きを観察して、跳べるまでやり直して、「できない」から「できる」に無理やり自分を持っていく。だって「自分はできる」のだから。そう思うのにロジックや根拠なんてもの、考えたことがない。そんな言葉すら思い浮かぶこともない。だって知らないんだから。自分の身体を動かして、その身体感覚が「できる」という信号を出しているんだから、それはできるのだ。

 そして、遠足は楽しいものになるのだった。1週間前も、前日も、そう思っていた。「なぜ」と問う理由もない。しおりに「たのしいえんそく」と印刷されていたからではなく、自分が根拠もなく「たのしくなるものだ」と思っていた。それは「たのしくあるべきだ」とは違う。自分の思う「たのしい」という枠に外側の世界を押し込めるのではなく、予想外のことが起きても「たのしいことなんだから、これでいいのだ」である。いま思えば、その心のもちようが自分の体験の質を決めていたように思う。

主観的感覚が自由という言葉の内容なのである。

小坂井敏晶 責任という虚構


 ひとが言葉を覚えるにつれて、その言葉で心を捉えて他人にわかるように説明しろ、という場面が増える。それはそれで大事なことではあるものの、すべてをひとつの物差しで測ってしまうのはつまらない。こう言ってしまうと身も蓋もないのだけれども結局、他人にわかってもらえるというのは、言葉を受け取る相手の主観的感覚(=価値観)にとって快い、都合がよい、あるいは理解できるレベルの考え方を、言葉にして伝えているだけのことである。

 他人は他人のものの見方しかできないし、自分もまたそのようにしか振る舞えない。どうしようもない隔たりの此岸にいるのが自分で、彼岸にいるのが自分以外の全てであるという言い方もできる。他人がわかろうがわかるまいが自分は自分だし、自分は自分でしかなく他人にはなり得ない。その自分が思ったことを他人から「なぜ」と問われたところで「根拠なんてないさ。自分がそう思ったんだからしょうがない」と言う以上の伝え方はできない。それは「自分は他人ではなく、自分という確かな存在なのだ」と言っているようにも思える。