メモ

"普遍的"文学やエキゾティックな文学には、すでにアイデンティティは失われているから、彼ら(西洋の読者)はそれを安心して受けいれることができる。

柄谷行人 反文学論

これってどういうことなのかといえば、何十年か経って、他のひとの口から出てきた。

世界文学になるものは、自分がいるところを「外から見る」能力がないといけないんだ、と。そうじゃないと、歴史的な文脈を共有しない他国の読者たちと「対象に対する距離感」が同じにならない。

内田樹 街場の文体論


柄谷は志賀直哉の暗夜行路を例にとって、アイデンティティと称するものを「生きた歴史的な感覚」と理解している。過去と対比できる程度に異なる「その時代・その場所」つまり今を生きている実感、といってよいだろう。自分が観察対象となっている場合、生きている時間の流れやいま存在している座標を、主観から離れて確定することはむずかしい。

三島や谷崎がある意味”普遍的”なのは、三島の場合は作家として平岡公威とは別の人格の人生を仕立てて主観から離れた演者を形成し、平岡公威自身は観察者となったところにあるのだろうし、谷崎の場合はもう少しわかりやすい形で、目にする対象を単純に観察者としてみていたところにあるように思う。
 内田樹の言葉を借りれば「文化人類学者が未開の社会にやってきて、民族誌資料を書くような感じで、あふれるような好奇心と敬意を持って」アウトサイダーの立場で書く。それは、今の今まで知らなかったものに接して書き留めずにいられない感覚に似ているのではないかとも想像する。


だからなに、ということもないのだけれども、今なんとなく考えていることが主観から離れないと、面白いものにならない気がしていて、どうしたものかとぼんやり思考を遊ばせていたら居眠りをしていたのである。夕食時に麦酒を一本飲んだからなのかもしれない。書き手の臭みやべたべたした手垢みたいなものが感じられないようになるまで文章を洗浄していく必要がある。一般には推敲などと言われる過程がこれにあたるのだろう。

たとえば村上春樹のすごさ、というのはそういうところにあると感じる。書き手は一切前に出てこない。当たり前といえば当たり前なのだが。提示されるのは、読み手が没入するためにあつらえられた「人の形をした器」であり、読者はその器に自分の体型がぴったり収まることに驚き、「自分のために書かれた文章だ」と歓喜するのである。すごさというのはその器の汎用性の高さであって、それが柄谷のいう「"普遍的"文学やエキゾティックな文学」であり、そこにはすでに書き手の「アイデンティティは失われている」という言い方が可能なのではないかと思う。

小説を書くのもそれ(旅行)と同じで、たとえどれだけ遠いところに行っても、深い場所に行っても、書き終えた時には元の出発点に戻ってこなくてはならない。

村上春樹 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上春樹は小説を書くにあたって「遠いところ」「深い場所」に行くと表現している。これは、自分の今いる時間・場所を体感して主観的に書くのではない。「今・ここ」でないどこかへ観察者として出かけることで、そこで見聞きしたものを書いているとも言える。柄谷のいう「アイデンティティが失われた状態」をルーティンとして現出させる技術が、彼の作品の"普遍性"を担保しているように思う。


ぜんぜん違うことを書こうと思ったのにおかしなメモになった。おかしなメモでもよいのである。ここまで読む人はいないのだから。ここまで読んだ人は気が向いたらコメント欄に「だっふんだ!」と残してみてください。それはさておきこれはあとからみたら支離滅裂なのではないか。なぜならば、麦酒を飲んで居眠りしたあとに、仏陀でもないのに畏れ多くも半眼のまなこのままたらたらとメモ書きをしているからである。そういうときには普段思っていることをきっかけに何か変な方向に話が進んでいったり、勝手に文章がつぎのアイデアを呼んできて、気づけばなんだかだらだらと書きつけている。これは昔の人が「あやしうこそものぐるほしけれ」といった心の状態であろうし、こうやって文章を継いでいくちょっとトリップ染みた感覚になることを、文学の素養のない子供に、品詞分解をして熱弁する世のひとたちは大変だろうなと思ったりなんかしちゃったりした。あははん。


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