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桃太郎 Ver. N

自分以外、誰にも書けない『桃太郎』を

白4企画

 それは、桃太郎といってよいのであろうか。
 というのは、かつて太宰治はいくつかの日本の昔話を独自アレンジしたお伽草紙においてこう書き残していたからである。

せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩である。

お伽草紙

これをふまえ令和の「桃太郎」を募集するぞと、白4企画。
僭越ながら、おじゃまいたします。

 業務として鬼退治を行う会社があったら、桃太郎という話はどう展開するのか。ものがたりはそういう気楽な思いつきからスタートしました。
 桃に入り込んだ社員である桃太郎は川を流れ、無事おばあさんに拾われます。順調に鬼退治に出発するかと思いきや、鬼の素性も居場所も掴めない桃太郎。困った彼は日本地図を広げ、鬼に関係ありそうな場所へ出かけるのでしたが、ものがたりは書き手が全く意図しない方向に……。
 鬼とは何か、鬼退治とは何かを読者に問うかもしれない、桃太郎 Ver.ヴァージョン  Nエヌ、no+eの限界集落からお届けします。



 むかし……、という書き出しで始まる話を少し前に書いたような気がするが、これはその話とは違うのである。

 むかしむかし或るところに、おじいさんとおばあさんが住んでいたのである。

 或るところといっておけば、そこからそこから読者は具体的な「或るところ」として、常識的な環境(この場合は、治安の安定した閑村)を想定することが多く、書き手がここに口を挟むわけにはゆかない。

「むかしむかし或るところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」という一文は、その単純な文章の意味構成だけでなく、おじいさんとおばあさんの穏やかな住環境を始めとして、ふたりの心身がおおむね健康な状態にあり、質素な生活を継続していること、までが想定されている。想定というよりはむしろ前提条件と言ってもよい。なぜならばそれが読者のみならず書き手にとって都合がよく、さらに言えば多くの場合、そういう前提がなければ話が進まなくなるからであった。
 おじいさんとおばあさんは赤貧に喘いでおり爪に火を灯した結果、両手両足が煤でまっ黒くなってしまったのです、そんなろうそく染みた話があるもんですかご冗談でしょうファインマンさんという設定は無いし、おじいさんとおばあさんは互いの暗号資産を狙って疑心暗鬼に陥っていました、などという設定も無い。

 その或るところで継続的に凪のような人生を送ってきたおじいさんとおばあさんはそれぞれ今日も、山へ柴刈りに、川へ洗濯にいくのである。今でいうところのルーティン・ワークである。

「こんなことして意味あるんですか」

などとは言わない。なぜならばそれは身体に染みついた習慣的労働だからである。考えずとも身体がそう動くのであって、そうでないことをやろうとすると調子が狂うのである。人間とは習慣づいたものを変えようとするとどことなく「いつもの感じが出ない」となる生き物であって、習慣が長期間にわたるほどその傾向が強い。おじいさんとおばあさんに向かって「なぜ毎日そのような動き方をするのですか。もっと効率的な生活、無駄のない時間の使い方があるので、こちらの超絶便利な商品を1ヶ月お試しいただけないですかほんと番組終了後30分限定だからマジお早めに送料無料」などという者はいない。ふたりの生活はふたりの世界で完結しているといっても良い。彼らはそうやって生きている。
 柴刈りと洗濯だけでは生存不可能であるから、日に二食あるいは三食と食べていたのであろうが、彼らの食生活は記録に残っていない。桃太郎というものがたりを展開するにあたって不要であり削除されたという学説が優勢のようである。
 これと同様に、おじいさんが山へ入ったところ「分け入っても分け入っても柴刈り山」とつぶやいた記録は残っていない。おむすびを木のうろや地面にあいた穴へうっかり落としたところが、えらいどんくさいやっちゃな、と言いながらネズミ等の小動物が出てくることがあるかもしれないが、それはまた異なる話として伝わっているため今回は割愛する。とにかく柴刈りに行ったのである。なぜならばそれが習慣的労働、換言すればルーティン・ワークだったからである。
 小さな頃はこの「柴刈り」を当然のように聞き流していたのであるが、柴とは何であろうか。広辞苑によれば「山野に生える小さい雑木」である。そういうものを刈りに、つまり家で燃料として用いるため収集しにいったのであった。

 一方のおばあさんであるが、川へ洗濯へ行くのであるから、この川は一定以上の清澄度があり、保健所のいくつかの指標をクリアしたものである。河原の石もつるつるで流れに磨かれており、ちょうど腰をかけるのに都合のいい平岩がある。そこへ洗濯物を入れたたらいを置き、腰を伸ばすべく背伸びをする。そうすれば欠伸のひとつも出るであろう。川は上流から下流へとただ水を運び、その源がどこにあるのかおばあさんは気にしたことがない。いつもどおり川は流れ、その水は清く、自分たちの汚れものを清潔に保ってくれるありがたいものである。年のせいかあかぎれが辛いのだが、山へ入り虫に刺され、時に鹿や猪に遭遇し道に迷いながらも山野に生える小さい雑木を集めるおじいさんと比べればまだマシである。

 そうしたところが川の上流から大きな、いや相当に巨大な桃が流れてくるのである。その桃はヘタを下にして川の水面を滑るような様子で流れてくる。比重が相当に軽いか、表面のうぶ毛による撥水効果か、あるいは表面に含フッ素ワックスを塗布してあるのかもしれぬ。さらには重心はヘタ側にあり、果頂部は低密度であることが想像された。なぜなら流れ来る桃はヘタを下にしてあることが目視により確認でき、絵本においてもみなそのように描かれているからである。
 おばあさんはその桃を見つけたのである。見つけたからには自分のものである。近代以前の日本人の所有意識とは基本的にそのようなものと理解されている。ここでは、具体的な物品が過去に誰の所有物であったのかは(明確に誰それのものであったと複数の人間が理解している場合であっても)重要視されない。いま現実において所有の支配をしつつある者(この場合は、いちばん先に見つけた者)の所有権を有する力が強くなると解するのが妥当であり、おばあさんはその位置にいる。であればこの立派な桃がそもそもどこで生産・販売、流通しているか、あるいは誰が紛失したかに関わらず、今ここでおばあさんの所有支配を受けつつあるという現実を最も重視すべきである(もし不安であればまず地元のJA・派出所あるいは土地の権力者等へ問い合わせればよい)。こういった日本における近代以前の所有観によっておばあさんは大きな桃を自らの所有物と見做し、家へ持って帰るのであった。どうやら怪力である。

 おばあさんは帰宅してさっそく桃を割るのであるが、まさに桃を割らんとするそこにおじいさんが当然のような顔をして座っている。柴刈りを終えて帰宅していたのである。おばあさんは洗濯物に加えて桃を持って帰宅したのであるから、通常業務しか為していないおじいさんより遅くなるのは道理ともいえる。
 おばあさんの帰宅が遅れた理由として、持って帰ってきた桃が重かったことが考えられる。途中で「あら、お隣のおばあちゃん、その桃どうしたの?」などと聞かれた可能性もあるにはあるが、閑村であれば人口密度が低く、ものがたりにおいて人間の居住箇所がボルツマン分布に従うと仮定すると、隣人の住居までの距離が一定以上離れており気づかれなかったのであろう。見つかっておれば隣人は「おやおばあさん、そんなに大きな桃を。どれ、家まで一緒に持って行ってあげましょう」という言葉とともに「こんな大きな桃、おじいさんおばあさんのおふたりでは食べきれないでしょうねぇ、ヒッヒッヒ。何と言っても桃は鮮度が一番ですから。硬いうちに召し上がらないとねェ」と労働の対価として大きな桃の一部を受け取ろうとするであろう。そのような事態は避けられた。単純に重量物を持って帰宅するという事実が帰宅を遅らせたのである。

 おじいさんはどのような心理状態だったのであろうか。
「おばあさん、今日は通常に比して少々遅延があったようだが。もしや残業ですか。エックス・旧ツイッターのトレンドにもそんなん上がってなかったよ。俺、みたもん。遅いから検索したで。おばあさん スペース 遅延 とか。それはポストが無くて、NISAは長期投資やから慌てんな、みたいなスパム投稿はみたけどね。それはええねやけどねおばあさん、ルーティン・ワークであるところの洗濯物は、ああ、洗濯は終わってんのか、せやわな。やっぱりできる人は違うね。ははん。まあそれはそれとして、その大きな桃、いかにも身の詰まってそうな桃は、何処で如何様にして見つけなさったのか、あるいは購入に至ったのか、さらに言えばどのように持って帰ってきたのか。さては強力ごうりきでも雇ったか、そのような者を雇う資金はうちのどこにあったかなァ、天井裏か、床下か、あるいはせんべい布団の縫い目、あれをほどけばそこにあったかわからんなァ」
などと小言を並べ立てるようなことはせず、ただ黙して座っておるのだ。おばあさんと桃と、桃を割らんとする包丁を目の前にして。できた男とはこういうものであろうか。

 そうして二人は黙したまま相対し、おばあさんが包丁を振り上げ大上段から大きな桃を真っ二つに割るのである。おじいさんとの共同作業ではない。なぜならこの場はウェディングではないからである。
 この場面においておじいさんにはその心を通して、切腹する桃の後ろからおばあさんが介錯をする絵が見えており、ああ、昔このような場面があった、俺はただの野次馬として切腹の場面を見物に行ったのだが、あれはなかなかのものだった。お館様のために命を散らした者たちはあの世でよろしくやっているだろうか、と思いを馳せるのである。日本人には死生観の変遷があるものの、このものがたりにおいては、肉体を離れた魂が彼岸へわたり浄土へ旅立つというよりは、この世に造った墓地に居を移し、そこへ行けば彼らとの対話が可能であると見做していたのである。つまり死者には肉体を離れた魂があり、その魂は墓地を中心とした土地あるいは家の近傍に存在していると考えられていたのである。

 おじいさんがそのような思考を泳がせているうち、おばあさんは桃を中心からうまいこと半分にパッカーン割りよった。やるやん。そうしたところが元気な男児が飛び出してきたのであった。彼は金色の光をまとい、おばあさんの振り下ろした包丁の傷などついていなかったのである。驚くべきことである。これがキリスト教社会であれば、男児のまとった光を後光が差していると解釈し、それならばおばあさんはとりあえず一応聖母マリアに相当する人物であってここにも後光が差しているはずであるとか、おじいさんはヨゼフに相当するのであるからこれもまた後光が差してなければ違和感があるとか、いくつもの指摘が可能になるのだろうが、このものがたりの土台に聖書はなく、日本における単なる民話伝承なのであるから気にせずとも良いのであった。

 そうしてその男児は「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン」などとは言わなかった。なぜなら彼は誰からも呼ばれていないからである。飛び出てきたのは事実ではあるが。そして飛び出してすぐに、ふたりの老人に向かって語りかけるのである。以下はその文字起こしである。曰く
「いきなりこういう演出で出てくるとびっくりされる方が多いんですけどね、まあいつもだいたいこないな形でやらしてもうてまして、ええ。ほんまですねん。ほら、お二人ともびっくりしてはって。もうね、隠さんでも顔見たらわかりますから、びっくりしてはるかどうかくらい。ほんまね、こっちはこっちでね、桃の中で準備せなあかんでしょ、せやから大変でね。……え? 桃? ね、大きいでしょ〜。この大きさ、気づいてはりました? あっ、そちらの客席の、おば、いやマダムが、わたしの入った桃を、持って帰ってきはった。まぁこれはご苦労さまでした〜。重かったでしょ? ありがとうね、ほんまね。何でこない大きいか、聞きたいでしょ、ね?」

おばあさんは時間の止まったような顔で部屋の隅を凝視したまま座っている。その間を嫌った男児はおばあさんの返事を待たず、かといっておじいさんに話を振ることもせず続けた。

「これね、けっこう大変ですねん。桃の品種判別くらいはもう遺伝子解析でちゃちゃっとできるでしょ、そういう世の中になってまんねん。便利でしょ〜、ほんまね、見た目とかそんなんではごまかせませんねん。それくらい単純ならええんですけどね、今回ね、ぼくが入るくらい桃を大きくせないかんでしょ、そしたら桃の肥大期に機能する遺伝子をいじるんですわ、基本的に。まあいじるんはそこだけか言われると、こっからはコンフィデンシャルになるんで言えないんですけどね。あれですわ、キギョーヒミツみたいな? まあそういうやつなんで。一般的なことだけ言うとくとね、ひとつの細胞だけ大きくしても限界があるんでね、そうしたら果実として成長するかなり初期の頃に影響する遺伝子もいくつかいじってスクリーニングしますでしょ、そんでいろいろやって、筋のええ配列を組み込んでやっとるんですわ。そんででっかい桃にしたらしいですけどね。まあ解析したらどこいじったとかわかりますわな、それくらい。で、いくつか品種試したみたいですよ。中に入る身からしたらどれでもかめへんのですけど。で、中に入ってから切り口をね、生体接着剤でつけますねん、これ。医療用のんとかあるでしょ、ご存じ? そうは言うてもね、加温して接着したら桃が傷むんでね、そのへんうまくやってるみたいですけど」

 男児はそこまで一気しゃべった。桃の中に閉じ込められ川へ流された一連の体感時間があまりに長かったため、早く誰かに話をしたかったからである。相手の都合など関係なくただ言いたいことを言いたかったのである。そして言いたいことを言いまくったのだが、おじいさんとおばあさんにはまったく理解されていない。彼らはバイオエンジニアリング分野には興味がないらしい。

 そこには単純な「で、君はいったい何なん?」という空気のみがあり、時間の止まったような顔はおばあさんからおじいさんへ伝染している。男児はその空気を感じ取り、少しなれなれしいインターフェイスでアプローチを試みるのであった。

「しかしまぁ何ですな、ナイトスクープでそういう言い方してたでしょ、ねぇ。せやからアレですねん、さっき包丁で割りはったとき、パッカーンいうてうまいこと真っ二つになったでしょ? これね、あらかじめ桃の実を割ってね、そこにぼくが入ってそっから閉じてますねん。そんで川に流すっていうね。そしたら今回みたいに拾われるじゃないですかぁ。でぼくね、ここへきたって、そういうわけですねん」

 最後のほうはもう投げやりである。時間の止まったような顔をしたふたりはそのまま固まり、座して動かぬままであった。そのまま放っておけば老化も止まるのかもしれないが、男児にとってはどちらでもよかった。自分の話を聞いてもらわねば先へ進めないのである。その相手が不幸にも老夫婦であったがために彼のプレゼンテーションの内容はまったく意味がなかったのである。

 落胆した男児は心の中で、もうええわ、ええやろ、正味の話。この人らあかんから、ほんま。そのような独り言を繰り返していた。こういうのは繰り言というのだそうである。そして、ひとつ大きなため息をついたあと、いたずらをしてこっぴどく怒られた中学生が、生徒指導の教師へ反省を述べさせられるような、ひねた口調で言った。

「……桃太郎。桃太郎言いまんねん、ぼく」

老夫婦の時間が動き出した。

「ももたろう」
二人はうわずった声で名前を呼んだ。ももたろう。わかりやすい。これまでされた一連の説明がまったく理解できなかったために、ももたろう、というネーミングのわかりやすさはこの上なく響いた。彼は桃から出てきたのである。男児である。桃から生まれたももたろう。キャッチーではないか。隣人に「お宅、あの子どないしたんですか」などと問われても「ああ、あの子ね。桃から生まれたももたろう、ですねん。ははん」と小鼻を鳴らして答えてやることもできる。

ももたろう。ええではないか。

この時にはこれ以外、ふたりの頭には残っていなかった。男児からの煩雑な説明はただ時間を空費するだけでわずらわしさを生むに過ぎなかったのである。目の前で繰り広げられる事実があまりに突拍子もない場合、人は情報の整理が追いつかないのであり、おじいさんおばあさんはそのような状態にあったのである。しかし冷静になれば桃太郎というフォークロアは記憶の引き出しからでてくる。それを思い出すのには少々時間が必要なのであった。人とはそのようにできているのである。

 一方の桃太郎であるところの男児には、鬼を退治するという業務が課せられていたのだが、会社から派遣された顛末を老夫婦へ説明することは憚られた。最初に説明で下手をこいたからである。あの二人の時間を止めて理解を拒絶された。人へ何か説明する場合は本来、シンプルにわかりやすくする配慮が求められるにも関わらず、それを怠ったのである。

 鬼という存在は退治したと思ってもなくならない。不思議といえば不思議である。鬼とは何かといえば、わかりやすく言えば病気のようなものである。病気がなぜなくならないかといえばその原因がなくならないからであって、その原因はなにかと問えば、答えはさまざまなものとなる。内的な要因(たとえば栄養状態や遺伝的性質)であったり外的な要因(細菌やウィルス、化学物質、その他環境要因)であったりする。人間が毎年その年の型に合わせインフルエンザ予防接種を打つように、鬼も退治したそばからどこかに現れ、その度に退治の要請がなされ、男児は「桃太郎」という看板を背負ってその業務をこなすのである。桃太郎というのは鬼退治にあたって不可欠なブランドである。このブランドを毀損しないよう彼らは厳しい研修を受講したのち、桃の中へ入り各地へ赴任するのであった。

 鬼は手を替え品を替え出没するのである。桃太郎にとっては今回の鬼の素性とその対処方法を理解することがファーストミッションであり、その特徴によって退治のアプローチが変わるのであるが、斯様なことをあの老夫婦へ説明してもまた時間を止めてしまうだけであり、ここは独力で調査分析を進める必要がある。それにはある程度の時間が必要で、老夫婦の家に居候という形をとっておかねばならない。であれば従順で道徳的な少年のかたちで老夫婦の家で過ごしておくのがよさそうである。そうしておとなしく老人孝行などを為し、近所へも愛想を振りまき信頼をゲットしておけば鬼退治へ行く際に何かしらの融資・援助等を受けられる可能性があがるのであり、今はそのために我慢して時を過ごすのがよいであろう。
 最終的に鬼退治を成せば、ゆくゆくはこの成果が文科省指定の実話として教科書に載るのかもしれず、仮にそうなれば宣伝広告費をかけずにブランドに磨きがかかるのであり、これまで鬼退治が私的な企業活動であったのが国家の後ろ盾を得られるかもしれない。そうなれば、文科省を起点として文化交流を手がかりに外交ルートへ人脈を広げ、鬼退治をグローバルなものへ展開できる可能性が広がるのである(日本の国土の外側に鬼が存在するかどうか、未確認ではあるが)。

 そのような絵を描きつつ桃太郎と名乗った男児は、今回の退治ターゲットである鬼の情報収集を行うのであった。どこでそんなことをするのか。近所での聞き込みである。
「こんちわ、お隣さん」
「アラ桃ちゃん、いい子にしてる? 桃ちゃんがもうちょっとだけ大きかったら相手してあげられるのに、ねェ。それとも、もう大きいの?」
「ところでお隣さん、鬼のこと、知ってたら教えて欲しいねやけどね」
自分の任務遂行しか頭にない桃太郎は、隣人の媚態をそれと認識することなく、ある言い方をすれば空気を読まず、自分の言いたいことだけを言い、知りたい情報のみを収集しようとしていた。もっとも、隣人の容姿や振舞いが媚態から遠かったのが理由なのかもしれないが。
 調査分析とは、結果のプレゼンテーションの華やかさとは対照的に地道なものである。とりあえず手当たり次第に話を聞きまくる、あるいは関連するであろうと当たりをつけた書籍を読みまくる、それらを紙に書いて共通項を見出そうと仮説を立てる、その仮説を周りに「てゆーか、こない思うねやけど、どない?」と述べて議論するなどの行動を繰り返すのである。それがとある結論に辿り着くという期待や信念のもとに行われるのであるが、その過程を一歩引いてみてみると、何の糧になるのか怪しい行動をし、時を徒らに過ごし、無駄飯を喰らっているようにも見えてしまうのである。しかしどのような場合であっても考えるというのは自分ひとりの作業であって他人の介在する余地はない。他人は自分の思考を練り上げていくにあたってその触媒となるものではあるが、主体とはならないのである。桃ちゃんであるところの桃太郎つまり男児は、居候するおじいさんおばあさんの所有するところの家においてひとり沈思黙考するのであった。
 それを見たおじいさんおばあさんは、当初「桃からでてきた桃太郎は、出てきた刹那こそわけのわからぬことをべらべらと並べたて、こいつぁ賑やかな若者がやってきたものだ。日本語を解する若者ではあるのだから、今後しばらくの間は我らのボケ防止あるいは、うっかり徒過せんとする時を充実させる手段のひとつになるだろうことよ、ははん」などと皮算用をしていたものだから、引きこもりの様相を見せる桃太郎が心配になるのであった。
 心配というのは彼自身の身を案じるという意味での心配がある一方で、あの若者を養うことで我々の日常に潤いがもたらされるはずなんですがそれはまだですよねぇ、なんかこっちが世話ばっかりして不公平じゃないですか、という不満が無意識から意識の明るみへ浮上してくる手前の、本能的に言語化を忌避してしまうどこか居心地の悪い心理も含まれていた。それらの心理状況を総合したところつまり一言で言えば心配になったのだが、昔話に「わたしが向こうの部屋にいて何やらやっとるときは、アレやわ、この戸はもう、絶対開けたらあかんから。あかんことになってるから。な。開けたらわやでっせ」なる台詞があったことを思い出し、あれは民明書房刊・通縷つる御雅慧思おんがえしだったに相違ない、自分の記憶力も大したものだと自画自賛しながら、桃太郎のいる部屋の戸を開けてはどえらい事態が出来するのではなかろうかと気を揉む始末。ボケ防止どころか逆に要らぬストレスを溜め込むばかりである。この原因は桃太郎の現状がわからないという不安からくるものがひとつ、もうひとつはこんなにちゃんと彼を養った自分が損をしたくないという性根によるものである。
 そうはいってもわからないものはわからないのである。そして他人は他人でありある程度の信頼を置いておけば、不安は払拭といかないまでも軽減はされる。そして自分の「これだけやってやった」という執着についてはこれを自覚して捉え方を変えてやればよいのであるが、長く生きるというのは思考プロセスもその習慣から逸脱しづらくなっているためにそのようないわゆるメタ視点を意識するのはむずかしいところである。端的に言えば、考えすぎず執着しないということになるが、おじいさんおばあさんは彼らふたりの閉じた世界に生きており長らく外部の視点を持たなかったために異なる視点から物事を見よといっても話が通じないのかもしれぬ。

 桃太郎としてはそのようなおじいさんおばあさんの心理状態を気にかけることもなく、鬼の情報収集及び分析に時間をかけているのであった。その割に平凡な情報しか入ってこない。近所への聞き込みを続け鬼のことを知らない人間に「鬼とはなにか」を聞いたところで、むかし身内から聞いたであるとか、あの人がこう言っていたという伝聞であるとか、どれをとっても信憑性がいまひとつなのであった。
 調査分析というものはある程度の情報が集まったところで、もうこれ以上焦点を絞ろうと思っても不可能な段階にくる。必ずそうなるのである。そうなればあとは事実を総合した情報に補助線を引いて結論を出すしかないのである。これは匙加減でどうにでもなることであって、つまりは桃太郎次第で鬼の素性が決まり、その退治方法の選択も決まるのである。事件は現場で起きているにも関わらず現場を知らない桃太郎の葛藤たるや。しかし一方でこう考えることもできる。実は鬼などいないのではないか。なぜならばこの閑村における隣人へのヒヤリング結果から、鬼の存在および被害はひとつたりとも確認されていないからである。

 実は、鬼などいないのではないか。

 しかし桃太郎は、社として派遣された以上、業務を遂行する必要がある。業務とはすなわち鬼退治である。川を流され桃を割られ、居候までして時間を過ごしてきたのであるから、鬼退治という実績がなければ自分の存在価値が疑われる。会社に対して、おじいさんおばあさんに対して、何より自分の過ごしてきた時間に対して。


 桃太郎は鬼に関する現場調査を打ち切りとした。有用な情報が得られなかったからである。代わりに日本地図を用意し、その中に鬼のつく地名を探し始めた。鬼という漢字のつく地名には鬼がいるに違いないという当てずっぽうに近い仮説にすがったのである。
 ここまで時間をかけ鬼に関する調査を進めたにも関わらず、成果が上がっていない。プレッシャーはいつしか自分を正常な思考プロセスから逸脱させる方向にはたらく。個人の持つ道徳観よりも目先の成果の方が重くなる。こころが一旦傾き始めると、自分の外側にそれを止める者はいない。彼はひとりで鬼退治の業務を進めるからである。視野狭窄に陥った心理状態は事実の整理から導き出される考察よりも、「鬼と名のつく地名には鬼が存在するはずだ」と仮説とするには短絡的な思い込みをよすがとするに至ったのであった。

 人間は、自分が理解できるものがたりや耳触りのいいものがたりを真実であるとか本当のことであるとか思いたがる生き物である。
 たとえば日本では坂上田村麻呂が蝦夷討伐へ出向いたという話が伝えられ、そうした先で鬼を退治したとされるものがある。地名として鬼死骸であるとか鬼首であるとかが残っているのがその証拠であり、ここには鬼が存在していたのだとすれば、なにか神話めいた雰囲気に「そうかもしれない」と思う人もあろう。
 なまはげという年中行事があり、いい子にしていないと鬼が来てエラい目に遭うのだ、という話もその土地の風土を体感すれば「そうかもしれない」と気持ちが傾くものである。
 あるいは100人いるうちの100人が真顔でそのような話をすれば、今はそうでなくとも昔はそうだったのだ、鬼を退治したから今の社会に鬼は存在しないのだ、と思い込んでもおかしくない。過去と夢とが等価であるように、思い込みもまた等価である。
 理解できないもの、自分から遠いものほど「そうであったかもしれないリアリティ」を真実だと思いたがるのである。リアリティとは現実にはないにも関わらずあたかも現実のような手触りを感じるこころの動きを指す。現実であればそれはリアルであり、リアリティとは違う。現実は身近にあるだけに話題にする価値もない。

 桃太郎は、鬼退治業務の納期を気にするあまり、冷静な視点を失ってしまっていた。目を皿のようにして地図と対峙し(鬼退治だけに)、鬼とつく地名を探している。しかしあまりに有名な地名であればこれまで既に鬼退治がなされている、あるいは鬼などいないと外部からのタレコミがある等のリスクがある。ここはひと捻り必要である。鬼という地名ではなく、鬼の伝説が残っている地において何かしらの拍子に鬼が復活してしまったがために退治が必要になったというストーリーであれば、報告書に仕立てたところでウケがいいのではないか。
 調査が一筋縄でいかないという「これからどうなんねん」的なツカミから、実は彼の地には鬼にまつわる伝説があり、一旦は退治されたとのことだが知らぬ間に鬼が復活してしまっていた、とするのだ。リサーチの結果、知らぬ間に鬼がはびこってしまったことを突き止めたわたしは、頼りになる同僚と共に彼の地に急行し、迅速に鬼を退治するに至ったのである。
 そういう報告書であれば、ほほうなるほどと上層部へのウケもええのではないか。
 ウソをつきたいタイミングにおいて人は、自分の短絡的な妄想を天才的な閃きと誤解するようである。切羽詰まるというのは事実このようなことであって、ただ今この時余裕をもってこの文章をよむ善男善女であっても、のっぴきならぬ事態に陥った場合、他人のことを笑うていられないかもしれぬのだ。用心召されよ。

 そうして地図を眺める桃太郎は鬼のつく地名を順に見ていくうち父鬼、鬼塚、黒塚と連想するに至った。そうか、安達原、黒塚。ここに鬼の伝説があるではないか。しかも地名があからさまに鬼ではなく、能の演目にもなっていてどうにも格調高そうな気がする。文化のかほりがムンムンしよるわ。ははん。鬼婆伝説があり、絶えたと思った鬼が実は密かに棲息しているということにしたろか。そこで一発こましたろ。ふわっ、テンション上がってきたがな。

 そう決めたら焦る桃太郎は一直線である。まず、メン募である。業務マニュアルによれば、ここで犬、雉および猿がメンバーとして加入することになる。桃太郎は頭ではわかっていながらやはり「人間ちゃうんかい」と毒づくのであった。犬ギター、雉ベース、猿ドラムで俺が歌う。いや、雉はパーカッションの方がええやろ。犬ギターもちょっとアレやな、っていうかバンド名どうする? 「桃太郎とアニマルスリー」とか? 内山田洋とクールファイブのパクリみたいに思われへんかな、あかんかな、などと妄想するのは現実から目を反らしたいからであり、彼自身も人間のそういう性質は重々承知しているものの、苦しい状況にある今、ちょっとくらい現実逃避してもええやないか、この隣までなんぼも距離のある村で、犬と雉と猿を見つけるのみならず仲間になれというてこれらを手懐け、さらに鬼退治とは。これは現実的な業務内容なのであろうか。考えれば考えるほど、この業務マニュアル、間違って印刷してもうたかな、ダウンロードし直した方がええんちゃうか、などと不安が増大してくるのであった。こういうときは気分を変えるのがよい。そういえばだ、あのおじいさんおばあさんは、毎日受験勉強さながらの引きこもり具合のこのぼくを心配しておるに相違ない。品行方正やしな。ははん。ふたりと久しぶりに茶でも飲んで一服したろか。

 部屋にこもり切りだった桃太郎がふたりの前に姿をあらわしたのであった。
「ちょっと茶でも」
おばあさんはハイハイわかりましたよ、とむかしばなしテイストの反応とともに茶を淹れる。美味くもなく不味くもなく、茶であった。おじいさんは気を遣いながらも桃太郎の様子が気になっているようで、
「何か根を詰めてやってるみたいですけど、アレ、いったい何なんですか?」
と無意識のうちに敬語で聞いた。悩み深き桃太郎はやっと聞いてくれたか、と思って話し出すのであった。
「せやん、もう全然うまいこといけへんからな、もうしんどいねん」
「はァ、しんどいのですか」
「まあね、ぼくくらいになるとね、考えることも多いからね、ははん」
などとはぐらかしつつ、あらまァ大変なんやねぇ、あんたすごいわ、そんな大変やのによくやってるわァ、まだ若いのになァ、などと誉めそやしてほしいのだが、おじいさんという人種はどうも気が利かず「そんなもんですか、はァ」などと言ったきり外を見て茶を啜っている。それ縁側でやるやつやろ。縁側マスターか、自分。そうやって内心ツッコんでいたのだが、俺かて縁側でボサっとしたいわ、こんなわけわからん鬼退治やらされとんねん、正味の話しんどいわ、と愚痴が黒雲のように湧いてきた。出口のない鬼退治ミッションの閉塞感が心を覆い、思わず口から出てしまったのであった。

「ったく、鬼退治とかマジありえへん」

その言葉を聞いたおじいさんとおばあさんは同時に桃太郎の方を振り向き
「おにたいじ!?」
と声を揃えた。あの若者は桃から生まれた桃太郎である。2人の記憶が確かならば、桃太郎はすくすくと成長して、立派な青年やな、エンゲル係数えらいこっちゃで、というタイミングで
「ぼく、おにたいじに、いこうとおもう!」
と眩しい正義感を発散させるはずである。おじいさんおばあさんにはその程度の記憶はあったのである。閑村といっても侮ってはならぬ。昔から伝わっている話には生活の知恵や人生の教訓が含まれるのであるから、リスペクトせな後からエラい目に遭うかもしれぬのだ。それに温故知新という言葉もある。
 それはさておき、鬼退治というフレーズを聞いたからには、おじいさんおばあさん後へは退けぬ。鬼退治の準備を進めるのであった。きび団子を業者に発注し、お供についても、鬼退治強化訓練機関へ訓練にやった犬、雉および猿の準備ができているかを確認せねばならない。確認といってもスマートフォンも電話回線もない。相手の居所へ出向き、顔馴染みの守衛に顔および音声認証してもらい(長年の知り合いであれば、遠くから来る段階で目視にて認証完了する場合もある)、先方の責任者と会わねばならぬ。急に忙しくなってきたのであった。

 ある日、おじいさんおばあさんは桃太郎を呼んだ。
「桃太郎や、これが特製きび団子だそうだ。一度にたくさん食べてはいけないそうだよ。なんだかテルペン系化合物が一定濃度含まれるんだそうだよ」
「テルペンって、アレちゃいまんのん、カn……
「バレンセンとかメントールも、テルペンだよなぁ。香料だよなぁ?」
おじいさんは急に「お前、黙って分かれや」という圧をかけてきた。桃太郎は初めておじいさんの本気を見た。この人はもしかして過去に何かあったのやないか。……そうだとしたら、おばあさんも?
 おばあさんはきび団子を丁寧に風呂敷に包んでいる。おじいさんは高圧的な敬語で言う。
「そういうことで!、犬、雉、猿にこれを分け与えて仲間にしたら、もう鬼退治ができたも同然ですよね!、そうですよね!」
「なにを焦ってるんですかおじいさん、あたしたちの時代とは違うんですから」
ほら、むかし絶対なんかあったやん。何なん、あたしたちの時代って。
「そうは言うけどですね、ばあさんや。今は動物も強化訓練される時代なんですますから」
桃太郎は強化訓練という言葉に引っかかった。鬼のことばかりに気を取られ、仲間にすべき動物については無頓着であった自分に気づかされた。
「え、強化訓練って?」
「桃太郎は引きこもってたから教えてやれなかったんですけどね、あなたね、これから犬、雉、猿というのをお供にするんですよ」
「なんとなく知ってるけどね、あれほんまですかね」
「ほんまです」
「そうですか」
「そうです」
「で、強化訓練ってなんですか」
「それは、選抜された優良な血統の動物を鬼退治専門の施設にいれて訓練するんでござる」
「え、そしたらぼくのお供はすこぶる優秀であると、そういうわけですか」
「そうです」
「人間より優秀ですか」
「人間に迷惑をかけないくらいは優秀ですよ」
動物といえば人間の思うように動かず、それを二匹と一羽という扱いづらい単位で連れて鬼の居住地域へ向かわねばならない。そういう鬼退治のマニュアルが桃太郎には解せなかったのであるが、心配は杞憂に終わるかもしれないと思った。だが人間が4人ではいけないのであろうか。動物のほうが人間に比べ秀でているとでもいうのであろうか。

 しばらくの後、桃太郎は一張羅に身を包み、強化訓練機関から派遣された犬雉猿といった供を連れるにあたり、業務委託契約を結んだ。本来は強化訓練機関が鬼退治をなさねばならぬところ、桃太郎に委託するということである。これにあたり犬雉猿を貸与するとのことである。動物たちにかかるコストは会社持ちであった。
「ほな行きますわ。鬼のひとつやふたつ、パッと見つけてこましてきますわ、はん」
と締まりのない挨拶をして、旅に出たのである。犬、雉および猿に特製のきび団子を食わせたのであるが、それぞれが急にハイテンションになる、やたらめったら頭上を旋回ののち急降下する、辺りを練り歩いたり他家の軒で踊り出すなどの行動が見られたため、これは大丈夫であろうか、と自分でもひと口食うてみた。むっちりした噛み心地は動物にはしんどいような気がするが人間の口の中では唾液と適度に混合されねっとりとした舌触りとなり、ほのかに甘くどこか淫靡な食感である。いけない思い出し笑いのような表情で嚥下すること数分。景色がだんだんと滲んできた。風の音がガムラン音楽のように聞こえ出した。手足が翼となり雉とともに上空を旋回している。何か典妙な心地がし、自らが極楽へ転生したように思えてきた。目の前には供物を盛る高杯があり、四角錐状にきび団子が何段にも積んであってそれが無数に並んでいる。そこへ手を伸ばした……と思ったところ、高杯のきび団子が犬の顔になった。驚いた瞬間、目の前には先ほどの長閑な村の景色があった。足元の犬がこちらを見上げている。猿は前を見据えて大人しく座っている。雉は肩へ止まってやはり前方を睨んでいる。
 桃太郎は目の覚めるような心地がした。強化訓練後の動物たちは、役に立つのではなかろうか。根拠もなくそんなことを思った。


 一行は安達原を目指して進んでゆく。しかしそこに鬼がいるという証拠はない。科学図鑑にも載っていなかった。会社の資料にもその特徴が記載されているわけでもない。ただ「さまざまな容姿で現れるため、鬼の存在を一般化するのは困難です」という無責任な日本語が印刷されてある。そうなれば何をどうしたら退治したことになるのか、報告するには退治とは何かを把握しそれに相当する事実を紐づけねばならない。しかし退くに退けず当てずっぽうで出発した今となっては退治という言葉の意味もおぼろげで、退治と言える事実を掴めるかどうかも怪しい。そうしているうちに早くも安達原の近くまで来てしまった。なぜなら地図を見た桃太郎は、報告をでっち上げるのに遠くへいく必要はないと考えたからである。

 目の前の吊り橋を渡れば安達原の集落のようである。かつては観光地であったのか橋のたもとに朽ちた立札が転がっており「ここより先、安達原」と書いてある。その脇に消えかかった字で小さく「鬼婆伝説の里」と記してある。間違いない。一人と一羽と二匹は吊り橋を渡り、彼岸へ向かう。鬼の棲み家があるのであろうか。
 橋を渡り終えると、往き来する者を監視しているのか、人相の悪い男が近づいてきた。
「あんた、どうしたね」
桃太郎は不遜な態度で応答した。
「見てわからんかいな。桃太郎やがな」
「モモタロー……? さぁ、聞いたこともねぇ」
「ところでここは鬼婆伝説があるそうやね」
男の顔色が変わった。
「それが何だね?」
「観光施設とか、あるんちゃいますのん。立札とかあったし」
言い終わらぬうちに
「そんなものは今、ないね」
不快さを隠そうともせず男は言った。どうせ鬼がおるのやろ、隠しやがって、と思った桃太郎は言う。
「あれは、伝説ですか」
「さぁ、昔のこたぁ知らねぇな。フン」
「……なんか、受け答えが感じ悪いんですけど。お宅、なんか隠してない?」
「あん?」
「もしかして、お宅が鬼とか?」
「いい加減なことばっかりいいやがって、小僧が」
 このまま話を続けても平行線である。さっさと鬼退治を済ませたい桃太郎は、まったく違うことを思いついた。周りには誰もいない。
「ところでお宅、腹減りませんか」
「あん?」
「ぼくね、お腰につけたキビ団子ちうやつ持ってんねやけどね。食べへん?」
男は警戒したまま動かない。
「これね、うちのおばあちゃんが包んでくれたやつでね。ええ味しますねん」
そういって桃太郎は自分がひと口食べるフリをしたあと、男にキビ団子をひとつやったのである。
「うまいで、正味の話」
男は桃太郎から目を離さず、ひとくち齧った。
「なんか、香料が入ってるらしくて、ほのかに甘い感じがなんとも言えんでしょ」
しばらくすると男の様子に変化が生じた。端から見ると気分良く酔っ払っているようにも見える。桃太郎は連れてきた二匹と一羽に言った。
「やったれや」
仕事は速かった。犬と猿が歯を剥き出しにして男を威嚇し、崖っぷちへ追い込んだところ、上空から雉が額へ爪で一発かましたのである。男は吊り橋のかかっていないところから、気分良く酔ったような表情のまま崖下へ転落した。木の枝の折れる音が鋭く響き、しばらくして重量物が地面に叩きつけられる音がした。
「鬼退治、完了」
 桃太郎はこの事実をもって、鬼退治実績にしようと思ったのである。あとは報告書を書けばよい。鬼婆伝説のある土地において、人の形をした鬼がまだ生きながらえていることを突き止め、見事退治した、ということにすればよい。

 とりあえず肩の荷が下りた桃太郎ではあるが、先ほどの古い立札のことが引っ掛かっていた。あの立札の内容と男の「そんなものは"今"、ないね」といった言葉からするとここには鬼婆伝説の観光施設があったであろう。報告書を仕立てるのに何か有用な情報があるやもしれぬ。時間もあるししばらく見てまわったろか、少なくともパンフレットか何かがあれば「そこへ行きました」という証拠にもなるしええこっちゃな、と鼻歌うたいながら吊り橋から離れ、集落の方へ進んでいくのであった。

 一方集落では、早くも吊り橋の近くに住んでる男が行方不明になったことが取り沙汰されている。この種のものがたりによくあることではあるが、集落の外れで遊ぶ子供たちが男と桃太郎との遭遇からの一部始終を見ていたようである。その拙い報告を総合すると、男は桃太郎に伝説のことを聞かれた後に「お前が鬼だろう」と言われて崖から落とされたらしい。男が転落したあとに相手は「鬼退治」と言ったそうである。この相手は動物を飼い慣らしているという。さらには鬼婆伝説に興味をもち集落をうろついているというではないか。
 確かに鬼婆伝説がこの集落にはあるが、今生きている集落の者はみな人間である。当たり前である。それに鬼婆といっても歴史上のちょっとした事実を政治的に都合よく脚色したに過ぎない。それであるのに集落に住む人間を鬼と決めつけ殺めるとは言語道断である。正しさとは何かを教えてやらねばならぬ。
「そいつはどこにいる」
 誰となく言い出した。見つけるのは容易い。人々は憤怒の色を隠そうとしなかった。これは伝説を引き摺らざるを得ない集落だからではなく、仲間を失った集団の正常な反応であろう。

 集落の住人たちは各々手に武器を携え、広場に集まってきた。鉈、鎌、鍬といった農作業に使うものもあれば、獣に仕掛ける罠や狩りの際に動物に射かける弓矢を持つものもいる。武器のないものは松明に火をつけ、敵を焼いてしまおうという者もある。風向きによっては火矢を射掛け、逃げ道を塞ぐこともできる。
 住人たちは殺気をみなぎらせて桃太郎を探し始めた。子供たちの証言によれば、集落の出口である吊り橋の方をうろうろしているようだ。そのうちに「あれじゃないか」と言い出す者が現れる。見つけた。
「焦るな、まだ遠くだ」
相手はひとり。それにあとは畜生だ。この人数に敵うはずがない。そう思っていたのだが、憤りを抑えられない者が大声を出してしまった。
「いたぞ! かたきめが!」
 呑気に鬼婆伝説の観光施設を見つけてやろうと思っていた桃太郎は不意をつかれた。何十人もの住人が武器を手にとんでもない形相でこちらへ向かってくる。あれは、あれこそは鬼だ。鬼がやってくる。先ほど崖に落とした男の復讐にやってきたのだ。鬼婆伝説の残る集落にはやはり鬼が存在した。
 集落の住人たちが追いかけてくる。まだ距離がある。冷静になれ。しかし二匹と一羽であの人数に対抗できるとも思えない。しかも俺ひとりであんな人数を相手にできない。
 そうだ、アレだ、吊り橋を渡りきったあと橋を落とせばええのではないか。漫画とかでちょくちょくあるやつである。劇的な報告書になるわ。まさかそんな場面が本当にくるとは思わなかった。ちょっと閃いた桃太郎は急に余裕な心持ちになりかけた。しかし、犬と猿がついてこない。これはまずい。このままでは殺される。

 ……罪もない仲間を勝手に鬼だと決めつけ、崖から突き落とした。悪鬼はどっちだ。俺たちは人だ、人間だぞ。伝説は伝説だ。それを外から来て平気な顔で人殺しをするとは。お前みたいな奴は殺されて然るべき存在だ。当然だ。報復だ。目には目を。殺してやる。

 彼らの顔からは怨嗟の声が聞こえてくるようであった。そういえば桃太郎は、以前に鬼退治に行った社員がそのまま成果を持ち帰らず退職するのを社内回覧でみていたのであるが、あれはこのような事態に巻き込まれたのではないか。鬼退治とはおとぎばなしのセーフティゾーンで繰り広げられるものだと高を括っていたのだがどうやら勝手がちがう。背後に吊り橋、動かない犬と猿を見捨てて逃げるか。雉はどこへでも勝手に飛んでいくだろう。どうせ費用は会社持ちだ。こんな時になっても俺はセコいことを考えよる。

 と、犬と猿がそれぞれ聞いたこともないような声で吠え始めた。絶望でもなくおののきでもない、憎しみを引き裂いたような声であった。繰り返し吠え続ける声には鋭利な殺意が滲んでいる。雉は空へ飛び立ち、これもまた鋭い声で鳴いた。始まったぞ、とでも言いたげに空を旋回している。恐ろしくなった桃太郎は一人背を向け、ここから逃げ出そうとした。すると多くの生き物がこちらへ向かってくる音が聞こえる。逃げ道が塞がる思いがした。この音は集落の住人にも聞こえているだろう。
 見ているうちに住人の背後から犬や狼が群れをなして押し寄せ、集落の住人たちへ襲い掛かったのであった。崖からは猿たちが現れ、同じように住人に四方八方から飛びかかる。動物が明確な意志を持って人間に襲いかかっている。そこから逃げようとする者は空からも行く手を阻まれ、足を止めているうちに地上の動物にやられてしまうのであった。

 連れてきた犬、雉、猿はどうやらそれぞれの種を統括する司令官の役割を担っているようで、今更ながらその面構えに気圧される桃太郎であった。彼らの仕草や鳴き声によって、それぞれの大群が森から空から崖から現れ、集団がひとつになりあるいは散開し、前後左右だけでなく空からも鬼とされる人間どもを追い込んでいく。人間のなかには火のついた松明をやたらと振り回すものがあり、それは本来、敵を威嚇したり火矢を射掛けるための火種になるはずのものであったが、動物に八方から攻撃されそれどころではないのであった。恐怖が頭を占領してしまうと人は正気を失い、喚き散らしたり四肢をただバタバタとさせたりするものである。それが松明を持っているのだから始末が悪い。松明で仲間の人間を殴り衣服を焦がし火傷を負わせるうちはまだよかったのであるが、そのうちに油の入った壺をひっくり返し、そこに着火した。ひとところに固まった人間たちの足元には瞬く間に火が広がっていく。動物たちもそこに巻き込まれている。そこから目を反らせなかった。聞いたことのない無数の絶叫が空に響いた。炎への恐れ、肉体的な苦痛、生への哀願……。火のついた人間や動物からはこのような声が出るのか。酸鼻をきわめるとは目の前のこれをいうのかもしれぬ。
 この偶然に、桃太郎は労せずして彼らが自滅するのを待つのみとなった。しかしその中から勇敢にもこちらへ向かってこようとする男どももあり、犬、雉、猿から指令の下った動物たちはその男どもに間断なく攻撃を仕掛けるのであった。飛び込んだ動物たちの中には当然ながら火に巻かれるものが出る。動物は本能的に火を恐れるものだと思っていたのだが、大勢で立ち向かっているからか、鬼気迫る人間どもにやられては種の保存が危ういという本能的な脅威を感じたのか、自らの身を犠牲にするものが現れるのであった。火に飛び込んだものの人間どもに殴られ蹴られ、焼かれ、踏み潰され、しかし動物たちもまた人間どもへ執拗に反撃していく。人間の頭から足元から背中から飛び掛かって勝負を挑み、ある者は人間の腹を食いちぎり、ある者は振り落とされ、ある者は人間の喉元を掻き切り、ある者は農具で撲殺された。
 この状況に怯むことなく動物たちは、後から後から火と煙を目印に加勢し、自分達よりも何倍も大きな人間どもの生命を地に沈めようとするのであった。
 桃太郎の近くで、最初に連れてきた二匹と一羽は、戦況から目を逸らさず仲間に声や身振りで合図を送っており、阿鼻叫喚のさまを俯瞰している。燃え盛る炎の中で繰り広げられる種族を超えた生き物の狂宴、あるいは肉弾の坩堝であった。これが鬼の所業でなく何であろうか。

 静けさが戻った。
 どれくらいの動物が動かなくなってしまったのか、数えることすらできない。鬼とされた人間どもはいなくなった。すべて屍体となったからである。草木が焼け、肉塊が焼け、元が何であったかわからない焼け焦げた死骸が折り重なっている。黒塚が現出した。いきなりこの光景を見た者は、何が起こったのか理解できないことだろう。こんなにたくさんの生き物たちが互いに殺し合い、焼き合い、真っ黒く折り重なっている。集落は潰えた。桃太郎は日本地図で見つけた地名、鬼死骸を思い出していた。どこかに隠れている集落の者がいるのかもしれないが、もうどうでもよかった。

 ……鬼退治だ。
 桃太郎は呟いた。植物ではないものが焼けた厭な臭いが消えなかった。


 犬、雉、猿は各々、自らの役目を果たし終えたため、業務委託契約を解除する前に強化訓練機関へ帰っていった。彼らはまったく忠実であった。一分の隙もなく。あのような環境に動じないのは、訓練されているからか、このような環境が彼らにとって当たり前なのか。
 桃太郎は殲滅したものを当初は鬼と決めつけていたのであるが、この光景を目の当たりにして考えが揺らいでいた。
 安達原に伝わる鬼婆もかつては人間であったのであろう。鬼婆という単語のために女性が鬼へ化けると錯覚する人があるかもしれないが、人は男女の別なく縁さえあれば鬼となり得るのである。

 たとえば芥川龍之介の作品「羅生門」において、下人にその所業をなじられる老婆があるが、あの老婆のような境遇で生きていればこの世の理不尽への恨みを増幅させ、その恨みを糧にしぶとく生き続けるかもしれないのである。そうなれば人はその姿を自ら修羅あるいは餓鬼のように変化させてしまうだろう。人の心とはその程度に強い力を持つものである。その心の動きによって容姿や生き様を変えてしまった存在をみて、人は鬼と言うのではないのか。
 自分の力ではどうにもならない理不尽に対して外部にその原因を求め、その被害を被るままにしてはおけない。その理不尽へわずかなりとも報い、自らの存在を認めさせたいと願う。それ自体は人として自然な振る舞いであろうが、その向きを誤ってしまうと人は鬼への道を歩いてしまうのである。

 桃太郎はそこまで考え、自らの遂行した「鬼退治」がどういうものかを自覚していた。課された業務と納期を意識するあまり、自らの能力不足・調査不足を棚に上げるのみならず、鬼の存在をでっちあげそれを「退治」したのである。それは鬼であったのか。ほんとうは、誰が鬼であったのか。
 自らの勝手な都合により意味のない殺生を行って憎悪の種を蒔き、その種から生じた終わりなき憎しみの螺旋を「鬼退治」と称して殲滅する行為は、どういった正しさに担保されているのか。
 あらぬ咎をでっち上げられ死屍累々となり果てた集落ではこの理不尽な「鬼退治」を憎み、復讐の矛先をこちらへ向ける者がこのあと現れないとも限らない。それが修羅となり鬼となった人間の姿ではないのか。

 鬼を生み出したのは、誰だ。

 いま振り返れば、会社の方針である「鬼退治」自体がじつは違っているのではないか、とも思えてくる。鬼が存在するという前提を疑わなかった自分がここまできてしまった。これまで何の疑いもなく業務に携わってきたが、誤った前提をもとに論理構築を試みようとするそれ自体が、ほんとうはおかしかったのではないか。
 無いものを有ると思い込み、それが有るという前提を疑わず聞こえのいいものがたりを手前勝手に作り上げようとし、現実をむりやり自らの論理の枠の中へ押し込めようとした。のみならずその虚構によって賞賛を得ようとするこの心は。

 もう、やってしまった。
 そう考えながら桃太郎は、報告書を書くためにおじいさんおばあさんの家へ足を向けたのであった。
 しかしおかしな話である。動物の強化訓練機関は、俺の勤務する会社に鬼退治を委託している。それは鬼退治という業務が確実に存在することを示している。会社は鬼退治をミッションに掲げていて、それは会社という性質上、社会通念から逸脱していないはずである。
 鬼退治は、誰がやるのか。現場社員である。鬼とは何か。人間の生活を脅かす存在である。人間のウェルビーイングのために、俺は働いて鬼退治に携わっているのだ。ところが鬼というものは人間の精神が憎悪や怨念に呑まれた成れの果ての姿であった。
 人が人を退治する。人に鬼というレッテルを貼って。それが正しい行為だと吹聴して。仮に鬼ではない人を鬼と誤認し退治したら、責められるのは誰であろう。まず現場だ。会社は「阿呆な社員がやらかしました、すんません」という目立たない会見を開き、型通りの謝罪をして済ませるだろう。鬼退治を委託する機関もまた、自らが手を汚すものではない。これは、実は「鬼退治ビジネス」ではないのか。

 世の中は、鬼退治を正当な行為であると信じて疑っていない。おじいさんおばあさんは鬼退治をした自分を「日本一の桃太郎!」ともろ手を挙げて迎えるだろう。俺はどんな顔をしたらええのか。

 彼の書いた報告書の内容は、伝わっていない。


(了)



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