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言葉って、へだたり。

まず、人と、人以外とをつなぐ言葉を考えてみる。

たとえばロボット、機械。
その中でも、自然言語を理解する、とされているもの。
いまどきはAIと言ったほうが通りがいい気がする。

人とAIをつなぐ言葉の関係。

人の言葉を、AIは理解する、らしい。

「明日の天気は?」
「近くのレストランは?」

という言葉を文字通りに理解し、検索結果を示す。
お主、わかるのか!? と思う。
機械でも人間の言葉がわかるようになったのか、と錯覚する。

錯覚する。

AIは文字通りに理解することはできる。
けれど、
言葉の背景にまで遡って
答え(AIにとっては「値」)を返すことはできない。

人は、テキストの世界まで下りていって
AIに合わせた言葉を選ぶ必要がある。

テキストの世界に下りていく前に、
人にはコンテキストの世界もある。
この場合のコンテキストは、
コンテクストというカタカナの場合もあるけれども
「そのテキストに至るまでの背景や文脈」
あるいは
「言語表現の背景」
というのが妥当に思われる。

このコンテキストを一切削ぎ落とした、
ひととおりの意味で理解できるテキストの世界まで下りていって、
初めて人とAIは「会話」できる。
しかし、背景のない言葉では、融通は利かない。

たとえば、
言葉や意味の掛合せで成り立つなぞかけをAIに喋っても
「上手い」とは言ってくれないであろう。


これは人とAIとの間に限らない。

人と人との間でも、
言語表現の次元を合わせることがある。
つまり
相手にわかってもらうように間違いのない言葉でしゃべる、
ということが誰にでもある。
それは
各々の持っている背景や経験が違うからである。

これは、相手が人ではあるものの
AI相手にコンテキストを削ぎ落としてしゃべる
というのに似ている。

個人の言語表現の背景はそれぞれで異なるのだから
ある人にとっては、
聞き手が「AIのように融通が利かない」と思うこともありうる。

人は、
それぞれの言語表現の背景の違いを
想像力で補うことができるから
(そこそこ)円滑に言葉のやりとりができる。
この「言語表現の背景の違い」は、
人と人との思考の隔たり、ということもできる。

その隔たりを推し量る想像力を一切削ぎ落とすと
言葉のやりとりに支障を来すことがある。
それはきっと、AIとのやりとりのようになる。
コンテキストを削ぎ落としてしゃべる最も極端な場合が、
言語表現の背景(=コンテキスト)を持たない
AIとのやりとりになるからである。

言葉とは、
他者との隔たりと、その度合を示す道具である、といえる。そう考えると、AIとの距離は遠いね。

言葉って、へだたり。



これは
拝啓 あんこぼーろ さんの企画にチャレンジさせていただいたものです。